高校野球

敦賀気比の東哲平監督のWiki風プロフ!嫁や家族に経歴と指導法にスカウト法は?

夏の甲子園で惜敗した敦賀気比(けひ)。東哲平(あずま・てっぺい)監督(39歳)のWiki風プロフや嫁、家族、経歴、ユニークな指導法、スカウト法をリサーチしました。

京都から野球留学、甲子園出場3回

氏名:東哲平(あずま・てっぺい)
生年月日:1980年7月27日生まれ(39歳)
出身地:京都府宇治市
家族:妻(2011年12月結婚)
学歴:私立敦賀気比高等学校(偏差値42~54)卒業
甲子園歴(選手):高2・夏8強、高3・春3回戦敗退、高3・夏1回戦敗退
球歴:三菱ふそう川崎(1999~2001年)
指導歴:北陸監督、〈オールスター福井〉監督、敦賀気比コーチ(2008年7月~2011年7月)、敦賀気比監督(2011年8月~、9年目)
甲子園歴(監督):2015年春優勝、春出場4回、夏出場4回、通算17勝7敗

東哲平監督は、京都府宇治市出身。

小学3年から野球を始め、1996年、野球留学で敦賀気比高校に入学しました。

敦賀気比の「気比(けひ)」とは、福井県敦賀市にある景勝地「気比の松原」、氣比神宮に由来しています。

当時の監督で“名将”と言われた渡辺孝一さん(1944~2008、享年64)に誘われたのでしょう。

高校時代のポジションは投手、一塁手です。

同級生には、広島打撃コーチ・東出輝裕(ひがしで・あきひろ)さん(39歳)、楽天打撃投手・金森久朋(かなもり・ひさとも)さん(39歳)らがいます。

中日の松坂大輔(まつざか・だいすけ)投手(39歳)と同学年の、いわゆる「松坂世代」ですね。

高校1年でベンチ入りを果たし、1997年、高2の夏、第79回全国高校野球選手権大会(夏の甲子園)に出場を果たしました。

大会初日の第1試合というプレッシャーのかかる中、敦賀気比は、堀越(西東京)と対戦。

息詰まる投手戦の中、5回裏に東出輝裕さんが四球で出塁。立て続けに二盗、三盗を決めて、後続の遊撃内野安打で生還しました。

結局、この1点を守り切り、1-0で辛勝しました。

2回戦の倉敷商(岡山)は6-2で、3回戦の専大北上(岩手)は11-0で共に快勝。

ベスト8が激突する準々決勝、敦賀気比は前橋工(群馬)と対戦。延長10回裏、1死二塁で打者が捕ゴロで一塁アウトになる間、二塁走者にホームを突かれ、サヨナラ負けを喫しました。

1998年、高3の春のセンバツでは4番で出場。

初戦の2回戦、島田商(静岡)に4-1と快勝。

続く3回戦で、日本テレビアナウンサー上重聡(かみしげ・さとし)さん(39歳)のいるPL学園(大阪)と対戦。3-1と力負けを喫しました。

高3の夏、福井大会の決勝で、東哲平監督は5打点と大暴れで、甲子園出場を決めました。

しかし、初戦の1回戦で、桜美林(西東京)に5-0と完封負け。

3回連続で甲子園に出場したものの、東哲平監督の高校野球は、悔しい不完全燃焼で終わりました。

東哲平はプロに進めず、社会人で挫折

東哲平監督が最後に夏の甲子園に出場した、1998年プロ野球ドラフト会議。

1巡目と2巡目で、社会人と大学生に逆指名が許されていた当時。クジ引きは、高校生のみでした。

当時の目玉は、春と夏の甲子園の優勝投手、横浜高校の松坂大輔投手でした。松坂大輔投手には日本ハム、西武、横浜の3球団が入札。西武が当たりクジを引きました。

他には、沖縄水産の新垣渚(あらかき・なぎさ)投手(39歳)をオリックスとソフトバンクが指名して、オリックスが当選。しかし、新垣渚投手は入団を拒否する事件がありましたよね。

そんな中、広島はドラフト1巡目で、東哲平監督のチームメート、東出輝裕内野手を単独1位指名しました。

察するに、東哲平監督の心中は、仲間がプロに高評価されて入った嬉しさと、自分は指名されなかった悔しさが去来していたのではないでしょうか。

敦賀気比を卒業後、東哲平監督は大学に進まず、社会人野球の三菱ふそう川崎に進みました。

大学ではなく、社会人を選んだ理由は、やはりプロ志向でしょうね。

よく誤解している人がいるのですが、プロ野球は、野球選手を育てる場ではありません。使う場、悪く言えばふるい落とす場です。

支配下登録選手は各球団70人、一軍登録は29人です。高校野球もベンチ入りメンバーは18人なので、二軍も二十数人で事足ります。

つまり、一軍と二軍合わせて実働は約50人。残り約20人は“要らない選手”なのです。

一方、社会人野球のチームは、もっと小所帯。例えば、2019年の東芝野球部の選手は、投手10人、野手19人の合計29人です。

それだけの人数に監督・コーチが4人ですから、細かく目配りできて、手取り足取り打撃や守備、ピッチングを教えてもらえるんですね。

なので、やみくもにプロ入りするより、社会人野球に入ったほうがじっくり育ててもらえるわけです。

しかし、東哲平監督にとって、社会人野球は甘くなく、全く活躍できませんでした。

頑張って3年間所属するも2001年、21歳で退団・退社。

31歳で母校の“プロ監督”に

いったん、郷里の京都に戻りましたが、福井県で指導者としてスタート。

福井市の私立強豪、北陸高野球部(夏出場3回、春出場1回)のコーチ、監督を経て、中学硬式野球チーム〈オールスター福井〉の監督を歴任。

〈オールスター福井〉の監督をしているとき、母校からコーチ就任を打診されて迷った東哲平監督は、総監督を務めていた元巨人・阪神投手、小林繁(こばやし・しげる)さん(1952~2010、享年57)に相談しました。

「行ってこい。その代わり、全国制覇するのが条件や」

吹っ切れた東哲平監督は、2008年から敦賀気比のコーチを務め、2011年から監督に就任しています。

大学を出ていない東哲平監督は教員免許がなく、教員ではありません。

敦賀気比の学校職員として勤務する“プロ監督”です。

常に結果を求められるプレッシャーの中で、監督を務めています。

「何か1つ、目立ったところを見る」

東哲平監督は、プレーヤーとしては大成できずに終わりましたが、監督としての実績は群を抜いています。

39歳の若さにもかかわらず、甲子園に春4回、夏4回出場。

2015年の春のセンバツ優勝、2013年センバツ4強、2014年夏4強。

通算24戦17勝7敗、勝率.708。

教え子に、オリックスの吉田正尚(よしだ・まさたか)外野手(26歳)、広島の西川龍馬(にしかわ・りょうま)内野手(24歳)、日本ハムの平沼翔太(ひらぬま・しょうた)内野手(22歳)らがいます。

さらに、現3年生にもプロ注目の4番・木下元秀(きのした・もとひで)外野手(3年)がいます。

「ウチの場合、中学時代にめちゃくちゃ目立った子が来てくれるわけではありません。いわゆる『強豪校』とは違います。強いチームでなくても、その中で目立っている子を見つけて、叩き上げて競争させてという形です」

「ウチの出身で、プロに行った子も能力は高いですけど、大阪桐蔭さんに行くようなスーパー中学生ではありません」

教員免許がなく、教員ではない東哲平監督は、学校職員である“プロ監督”です。野球部の監督を続けるために学校職員として採用されています。

失礼ですが全然、安定した身分じゃないです。監督として結果を出せなかったら、まあ学校側も数年は我慢してくれるでしょうが、最終的にクビになります。

このため、普段は福井県の内外で、有望中学生を見て回っています。

総人口6万5565(2019年3月29日現在)の敦賀市には、中学校は6校しかありません。当然、選手は、敦賀市外からも連れて来る形になります。

「福井市内には、中学は26校ありますが、敦賀市と福井市だけで集めるのは、難しいですね」

「学校のある敦賀市は、県庁所在地の福井市から約65キロ、車で1時間はかかります。なので、敦賀の子以外は、県外からという感じになります。京都からJRで1時間半、大阪から2時間と、関西からは来やすいかなとは思います」

中学生を見るときに、東哲平監督は「何か1つ目立つもの」を見つけるよう心がけています。

「三拍子、全部揃った子を見つけるのは、なかなか難しいですよ。何か1つ、目立ったところがないか、それを見つけようと心がけています。足が速い、肩が強い、球が速い、制球がいいとか。もちろん、将来性(伸びしろ)も見ますよ」

そうやって集めた選手たちを、東哲平監督は付きっきりで指導しています。

「休みは、年末年始だけです。普段は、全く休みなしです。月曜は自主練の日にしてますが、顔を出したりします。寮に週2~3日は泊まり込みます」

練習以外の時間は、中学の大会や練習を見に行ったり、大学に部員を連れていったりしています。

「(部員の)希望する大学の練習会に行かせますし、大学の監督さんにも頭を下げたりします。もちろん、入れてあげたいですけど……それぞれ、個々のレベルがありますからね。野球の実力、学力、寮生活、学校の授業が、しっかりできない子は、ダメです」

“プロ監督”であろうと、学校で働く教育者に、変わりはありません。東哲平監督は日夜、子どもたちのために心を砕いています。

「(敦賀気比には)まず甲子園には出たい、次にプロ野球選手になりたい、いい大学、社会人チームで野球をやりたい、と思っている子が、たくさん来ています。子どもたちのためなので、できるだけ頑張ろうとは思っています。無理をすることもありますが」

実は、東哲平監督は、子どもたちへの指導で強く心に刻まれている苦い思いがあるんです。

東哲平監督より2つ下が高3の2000年春、センバツ出場が決まりながら、直前になって3年生部員Nが無免許飲酒運転で交通事故を起こし、出場辞退に追い込まれたんです。

2005年7月、東哲平監督の2つ下で、プロ野球巨人のブルペン捕手をしていたR選手が不祥事を起こして逮捕、解雇されたんです。

野球の才能でせっかく将来を掴みながら(掴んだのに)、人間性が伴っていないばかりに、夢を諦めなければならなかった。

しかも、2000年のセンバツを出場辞退したせいで、1998年夏から、再び甲子園に出られたのは2008年春まで10年間、野球強豪校としての地位が失われてしまった。

東哲平監督は、誰よりも、人間教育の重要性を思い知っているんですね。NもRも、東哲平監督が3年生のときに1年生だった部員です。

東哲平監督らが、下級生にきちんと礼儀やマナー、道徳心などをしっかりさせていたら、敦賀気比の“失われた10年”はなかった。

野球学校だからこそ、監督がきちんと部員に人間教育を施さなければならない。子どもたちをしっかりと大学や社会に送り出してやらなければならない。

そんな思いが、東哲平監督を人間教育へと駆り立てていると思います。

絶好の同点機、敢えてヒッティング

2019年8月7日、ベスト16を懸けた3回戦、仙台育英(宮城)戦。

シーソーゲームで4-3ともつれ込んだ最終回。

1点ビハインドの敦賀気比は1死一、三塁と絶好機を迎えます。

「スクイズで、まず同点」

誰もがそう思ったとき、東哲平監督は、ヒッティングを選択しました。

結果はアウト、最後は空振り三振で、ゲームセット。

その前の6回裏、3-2とリードされていた仙台育英は、スクイズを絡めて逆転しただけに、いっそう対照的でした。

並みの監督なら、あの場面はスクイズを選択したでしょう。

しかし、東哲平監督は、スクイズを選択しなかった。何か、もっと大きいことを考えていたのではないでしょうか。

人生に、スクイズはありません。ゲームで戦っている選手たちのその後の人生、野球人としてのキャリアを考えて、敢えてヒッティングに出たのではないかと思えてなりません。

あの試合1回表、敦賀気比はアクシデントに見舞われました。

2死走者なしの場面で、2回戦の国学院久我山(西東京)戦でサイクル安打を達成した杉田翔太郎一塁手(3年)が頭部に死球を受け、途中交代。

その裏からは、長谷川信哉内野手(2年)が一塁を守りました。

長谷川信哉内野手は無安打ながらも、しぶとく3四球を選び、チームに貢献。1盗塁を決め、走者としてホームに還ってきました。

杉田翔太郎一塁手も近くの病院で治療、検査を受けた後、試合中にベンチに帰ってきました。

残念な結果にナインは悔し涙を流しながらも、きちんと整列、しっかり挨拶をして甲子園を去ってゆきました。

その姿に、何か爽やかな思いを感じたのは、私だけだったでしょうか。

東哲平監督の目指す“人間力野球”が垣間見えた気がしました。

39歳にして“名将”の雰囲気を漂わせる東哲平監督ならではです。

2011年挙式、披露宴に野球部員ら

 

そんな東哲平監督も、グラウンドを離れると、1人のオジサンに戻ります。

「甲子園に来る前も、挨拶などでバタバタして、家族と食事はできましたが……」

嫁や家族の情報をリサーチしたら、2011年12月3日に夫人と挙式したとあるだけで、詳しいプロフィールなどは分かりませんでした。

ただ、画像で見る限り、若くてきれいな方ですね。

挙式当時、東哲平監督は31歳です。奥様が0~5歳下と考えると、奥様は34~39歳ぐらいではないか、と。

子どもさんがいたら、常識的に小学校低学年ぐらいだと思われます。

年末年始以外、ほとんど休みのない東哲平監督。家族サービスもままならないでしょうが、夏の大会の終わった今は、少しは安らいだ気持ちで、ご家族と過ごされているかもしれません。

東哲平監督、宴席は付き合い程度です。

「夜の接待? 大学の監督さんと会食することもありますが、僕は元々、しゃべるのが苦手で。知らない人と行くのは、あんまり好きじゃないですね(苦笑)」

きっとグラウンドを離れても、よき社会人なんだと思います。

ご自分の結婚披露宴に野球部員を出席させる監督さんですから、きっと普段から心温かい監督さんなんだと思います。

敦賀気比が再び甲子園に戻ってきて、頂点に輝くことを信じています。

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