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東京五輪で卓球台の公式サプライヤーを務める三英が注目されています。三浦慎社長の嫁や家族に学歴、世界的なメーカーになるまでの試行錯誤をリポートしました。
卓球日本、1950年代に黄金期
氏名:三浦慎(みうら・しん)
生年:1961年(58歳)
学歴:専修大学経営学部経営学科(偏差値52.5~55)卒業
職歴:1984年、会計事務所に入社。1985年、三英に入社。営業部長を経て2000年、取締役。2002年、代表取締役社長
かつて、卓球は、日本のお家芸ともいうべきスポーツでした。
1954年の世界卓球選手、日本は男子と女子の団体で、アベック優勝を果たしました。
男子団体は、それから1959年まで5連覇。3大会で中国に敗れ、2位に甘んじたものの、その後、2大会連続で優勝を果たしました。
女子団体は、男子を上回る、実に優勝8回を数えています。
そんな卓球日本の中心的なプレーヤーだったのが、故・荻村伊智朗(おぎむら・いちろう)さん(1932~94,享年62)です。
世界卓球選手権男子シングルス優勝2回、同男子ダブルス優勝2回、同混合ダブルス優勝3回の偉業を達成した荻村伊智朗さんは、後に国際卓球連盟の会長を務めました。
1994年12月、荻村伊智朗さんが肺がんのため、亡くなると、主要大会のジャパンオープン卓球選手権は、荻村杯国際卓球選手権に改称されました。
しかし、そんな日本のお家芸ともいべき卓球ですが近年、男女ともに優勝から遠ざかっています。
世界卓球選手権の男子シングルスでは、1979年の世界卓球選手権平壌大会で優勝した小野誠治(おの・せいじ)さん(63歳)を最後に、実に38年間も優勝できませんでした、
2017年の世界卓球選手権デュッセルドルフ大会の混合ダブルスで、吉村真晴(まはる)・石川佳純(かすみ)組が優勝して、やっと不毛な記録にピリオドを打ちましたが。
しかし、そんな競技としての日本の不振とは裏腹に、卓球用品メーカーとしての日本の地位は、他の追随を許さないレベルです。
中でも、競技用卓球台の三英(さんえい)は、唯一と言ってもいいメーカーです。
祖父に作ってもらった虫かご
三英は、日本国内でシェア75%を誇る卓球台メーカーです。
とりわけ、五輪や世界選手権などで使われるハイスペックな卓球台では、圧倒的な支持を集めています。
そんな三英の采配を務めるのが、代表取締役社長・三浦慎さん(58歳)です。
元々、三浦慎さんの祖父・松田英治郎さんが、材木店の傍ら、卓球台の生産を手がけたのがきっかけで、世界的メーカー、三英は1962年に生まれました。
三浦慎さんは幼稚園に通っていた頃、東京の自宅から、祖父の住む千葉県流山市(ながれやまし)に遊びに行っていました。
ある日、祖父に誘われました。
「明日、カブトムシを捕りにいこうか」
当時の流山市は、クリ林が広がっていて、虫がいっぱい捕れました。
流山市に着くと、おじいさんは、
「虫かごがないので作ろうか」
と、三浦慎さんを卓球台工場に連れてゆきました。
おじいさんは、そこら辺に転がっている端材を拾い、電動工具を使って、あっという間に虫かごを作り上げました。
「まるで魔法を見ているようでした」
以来、流山市のお祖父さん宅に行くたびに卓球台工場で端材を拾い、釘打ちしたりして遊ぶようになったとか。
「私にとって、それがものづくりの原点でした」
「卓球は根暗」のイメージ
やがて、三浦家の家業は、材木から卓球台が主となってゆきます。
2代目社長になった父・松田英男さんからは、
「大きくなったら、会社を継ぐんだぞ」
と言われて育ちました。
三浦慎さん自身も、やっぱり手先が器用だったのか、
「小学校から高校まで、美術だけは通信簿で5を落としたことがない」
おかげで、先生から美大受験を勧められるほどでした。
「某大学の芸術学部なら推薦が取れる」
しかし、幼い頃から、ものづくりに魅せられていて三浦慎さんは、専修大学経営学部経営学科に進みました。
「会社を継ぐことを自然に受け入れていたので、経営学部に進みました」
専修大学を卒業すると、三浦慎さんは、修業のため、会計事務所に入社したものの、2年後、父・松田英男さんが急死。
このため会計事務所を辞めて1985年、三英に入社しました。
しかし、前記の通り、当時の日本の卓球は、長い低迷期にありました。
人気番組「笑っていいとも!」で司会を務めていたタモリさん(74歳)が、出演したシンガー・ソングライター織田哲郎さん(62歳)が、かつて卓球部に所属していたことを聞くと、
「卓球って根暗だよね」
この発言は、大受けしてしまいました。以来、卓球って根暗のイメージが定着するきっかけになってしまいました。
確かに、明るくはないですよね。
私も中学時代に体験しましたが、卓球の試合って、夏でも閉めきった体育館の中でやります。
風が吹かず、汗は流れるわ、昼なのに黒いカーテンを引くわ、やっぱり根暗だって思いましたもん。
野球やゴルフ、サッカーと違って、インドアのスポーツです。しかも、選手の動きが、どことなく昆虫を連想させます。
あと、ルールにあるって聞いたんですが、白のウエアがNGなんですって。ボールと紛らわしいから。
なので、選手は暗めの色のユニホームをまとうのですが、それがまた根暗に見えてしまうんですよね。
世界初、青の卓球台を手がける
そんな影響もあって当時、中高生の間に卓球離れが起こっていました。
1991年、世界卓球選手権幕張大会で、三英は初めて国際大会の卓球台サプライヤーを務めることになりました。
それまで、卓球台と言えば、黒板みたいな深緑色のボードが定番でしたが、国際卓球連盟会長だった荻村伊智朗さんから相談されました。
「テレビ映りのいい会場をつくって、アピールしたい。そのために、卓球台をもっと明るい色に変えたいと思っている」
相談を受けた三浦慎さんは早速、スタッフたちと赤、黄、ピンク、オレンジなど20色の試作品づくりに挑戦しました。
その中で、最もボールが見やすく、テレビ映りが良かったのが、青の卓球台でした。
三英は、青の卓球台を初めて製造して、選手権大会の試合に使用されました。
「青の卓球台は好評で、その後、欧州にも広がってゆきました」
三英は、1992年バルセロナ五輪、2016年リオ五輪と続いて、2021年東京五輪の卓球台の公式サプライヤーを務めることになっています。
三浦慎の嫁や子どもは? 役員に三浦姓
そんな三英の代表取締役社長・三浦慎さんですが、残念ながら、嫁さんやお子さんの情報は明らかにされていません。
三英の会社概要を見ると、三浦姓の役員が4~5人を占めていますが、もしかしたら、この中に、三浦慎さんのご家族がいらっしゃるかもしれませんね。
三英はその後、工場を流山市から原料の調達しやすい北海道足寄町に移転しています。
現状に安住せず、常に革新を求めてゆく三英の社風が、現れていますね。
日本の三英から、世界の〈SAN-EI〉へ。
もはや世界的企業となった三英の今後に注目です。
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