サングラス大仏(愛知県江南市)の場所や行き方は?いつ誰がどうして造ったかを調査!












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サングラス大仏(愛知県江南市)がインスタ映えすると、SNSで人気です、場所や行き方に、いつ、だれが、どうして造ったかを調査しました。

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踏切警報機が、大仏のサングラスに!?

愛知県江南市(こうなんし)と言われても、地元の方以外はピンと来ないでしょう。

江南市は、愛知県の北西部で、岐阜県との県境に位置する小さな市です。

江南とは、木曽川の南の意味。木曽川を挟んだ対岸が、岐阜県各務原市(かかみがはらし)です。

江南市の面積30.2平方キロで、全国791市中で701位。千葉県四街道市(34.5平方キロ)、埼玉県吉川市(31.7平方キロ)、神奈川県三浦市(32.1平方キロ)、東京都府中市(29.4平方キロ)ぐらいの大きさです。

人口は10万634人(2019年11月現在)。織物の街・一宮市に隣接し、かつては養蚕や製糸、絹織物が盛んでしたが、近年は名古屋市のベッドタウン化が進んでいます。

そんな当たり前の住宅街が広がる街並みを行くと、突如、大仏が現れます。

しかも、この大仏、見る位置によっては、踏切警報機がサングラスを掛けたみたいになるんです。

人呼んで、サングラス大仏。

近年、InstagramなどのSNSで取り上げられるようになり、海外からもお客さんが来るほどの人気スポットになっているんです。

意外にも、地元・愛知県の方でも知らなかったりします。よその土地の人から教えられて「どこにあるんだろう?」と首をひねる方もいるそうです。

灯台下暗しならぬ、大仏下暗しですね。

 

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「サングラス大仏」をGoogleマップで検索

この大仏を、地元の人たちは布袋(ほてい)の大仏と呼んでいます。

ロックスター布袋寅泰(ほてい・ともやす)さん(57歳)とは、何の関係もありません。

元々、古知野(こちの)、布袋、宮田の3町と草井村(くさいむら)が1954年に合併してできた江南市。

その布袋町(ほていちょう)、現在の江南市布袋町にあるから、布袋の大仏なんですね。

ところが、Googleマップで「布袋の大仏」と検索すると、なぜか2つの場所が示されます(2020年1月28日現在)。

いわゆるサングラス大仏は「布袋の大仏(御嶽薬師尊)江南市木賀町大門160」のほうです。いささか、混乱が生じているみたいです。

なので、布袋の大仏を見に行きたい人は、Googleマップで「布袋の大仏(御嶽薬師尊)」あるいは「大仏シャロン整骨院」と検索してください。理由は、後で説明します。

さらに、大仏が踏切警報機のサングラスを掛けた姿を見るポイント、写真を撮りたい人は「サングラス大仏」と検索してください。

愛知県道176号若宮江南線の名鉄犬山線の踏切手前が、サングラス大仏のポイントです。線路を挟んで西側に布袋の大仏が見えます。

その警報機が、まるで大仏のサングラスみたいです。電車が来ると、警報機がチカチカ光って、ウインクしているようにも見えますよ。

大仏に向かって、左車線の歩道が、絶好の撮影ポイントとなっています。

しかし、周辺に駐車場はなく、ましてや踏切の近くなので路上駐車は、やめてください。江南署の近くなので、駐車違反の目も光っています。

車で来られる方は、名鉄犬山線の布袋駅周辺にあるパーキングに駐めて、歩いてこられるのがお勧めです。

電車で来られる方は、布袋駅からサングラス大仏まで850メートル、徒歩10分です。

大仏の背後に整骨院、先代院長が建立

さて、布袋の大仏の背後には〈大仏シャロン整骨院〉の建物が、つながっています。

近くで見るコンクリート製の大仏は巨大で、高さが約18メートルあります。奈良県の東大寺の大仏は高さ約15メートルなので、布袋の大仏のほうが3メートルも高いんです。

院長の前田正秀(まえだ・まさひで)さん(83歳)が、大仏のいわれを語ります。

――どなたが、この大仏を造られたんですか?
「私のパパです、お父さんです」

布袋の大仏を建てたのは、正秀さんの父・前田秀信(ひでのぶ)さんです。

――いつ頃から、あるんですか?
「昭和29年(1954)に完成しまして、それ以降、六十数年ぐらいですかね」
――どうやって造ったのですか?
「全部、手です。土台から土を固めるのも全部、手ですね」

大仏は全て、父・秀信さんの手づくりだったんです。

――大仏を造る技術は、何か持っていたんですか?
「何もないんです。それで自分で考えて、小さな模型を作って、それを縮尺というのか、拡大ですね」

全くの素人と言っていい秀信さんが造り上げた大仏。当時、高校生だった前田正秀院長も、

「私もコンクリートをいろいろ練って、材料を上げたり、いろいろケガしたりして頑張りました」
――どんなケガですか?
「そうですね、上で作業している人が大きなナタを落として、頭に当たったことがありまして」
――完成したときは、どんな気持ちでしたか?
「5年ぐらいかかりましたからね。やっと済んだという感じはしましたね」

苦労の末、完成した大仏ですが、維持するのも、ひと苦労です。

「維持はね、たいへんなお金が掛かるんですよね。一番、掛けたときは、3000万円掛かりましたんですけど。顔でもコンクリートが剥(は)がれて、たいへん醜い顔になっていたんですけど。今はきれいですけど」

3000万円! マンションが1部屋買えちゃうお金ですが、そこまでして前田正秀院長が大仏にこだわるのは理由があります。

その1つは、大仏のお顔です。

「今の大仏と同じ格好で、父の座っている石膏(せっこう)像がありまして」
――お父さま自身の座った形が、こちらの?
「そうですね。だから、私のパパによく似ていると、顔が。
――そうなんですね。
「最近、私に似ているということで」

大仏のお顔のモデルは父・秀信さんなので、前田正秀院長は大仏に強い愛着を覚えておられるんですね。

戦没者の慰霊で建立、人気に「うれしい」

――大仏を建立した理由は?
「父親が言っていたことは、戦没者の慰霊で、大東亜戦争(第2次大戦)で亡くなった人たちを慰霊することですね」

戦争で亡くなった多くの人たちを弔うため、秀信さんは大仏を建立したんですね。

父・秀信さんの造られた大仏が“サングラス大仏”として話題になっていることを、前田正秀院長は、どう感じられているんでしょうか。

「大変なことが起きたというか、ブームでね。布袋の町内の方が、大仏をちょっとずつ盛り上げるように、ライトアップとか、いろいろ催しものをここでやったりとかして」
――地域が活性化するのは、うれしいですか?
「そうですね。掃除も大変ですけど」

話題のスポットとなったサングラス大仏は、静かに穏やかに、今日もサングラス越しに人々を見守っています。

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