慶応(慶大)は箱根駅伝でなぜ弱い?マラソン偏重をやめ27年ぶり出場へ強化策スタート












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100年の歴史を持つ箱根駅伝。慶応(慶大)は、もう27年も出場していません。慶応が箱根駅伝で弱い、出られない理由や、やっと始めた強化策をリサーチしました。

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100年前、慶応は箱根駅伝のルーツ校だった

2019年のNHK大河ドラマ「いだてん」をご覧になった方は、箱根駅伝の誕生のいきさつを、お分かりになったでしょう。

1912年ストックホルム五輪に日本人として初めて出場したマラソンの金栗四三(かなくり・しそう、1891~1983、享年92)は、1916年のベルリン五輪出場を目指していました。

ところが、第一次世界大戦(1914~18)のため、1916年ベルリン五輪は中止されてしまいました。

目標を失った金栗四三らは、読売新聞社と組んで1920年(大正9)、代替競技として東京・箱根間の駅伝競走を企画しました。

栄えある第1回は、金栗四三の母校・東京高等師範学校(筑波大の前身)、明治大学、早稲田大学、慶応義塾大学の4校で行われ、東京高等師範学校が優勝しました。

この始まりの4校を「オリジナル4(フォー)」と呼びます。日本における駅伝競走の歴史を担った特別の存在で、陸上界では名門、伝統校として、リスペクトを集めています。

以来、箱根駅伝は戦時下の1941~42年、敗戦前後の1944~46年の合計5回を除いて、毎年1月に行われています。

1920年に始まった箱根駅伝は、2020年でちょうど101回目になるはずですが、5回の中止があったため、第96回大会になっているわけですね。

こうした箱根駅伝の100年の歴史の中で、廃止された東京高等師範学校を除いて、明治大学は出場61回、優勝7回。早稲田大学は出場89回、優勝13回の華々しい成績を収めています。

ところが、オリジナル4の1つ、慶応義塾大学は出場30回、優勝はわずか1回です。

しかも、慶応義塾大の優勝は戦前の1932年(昭和7)、2020年から見て実に88年前の出来事です。つまり、今生きている人は、ほとんど誰も知らない出来事になっています。

出場にいたっては、前回の出場は、26年前の1994年。このときは70回の記念大会で、15校(当時)の出場枠を20校に増やした結果の出場、つまり水増し、カサ上げの出場でした。

なので、翌1995年からは“通常”の予選会敗退が恒例になって、現在に至っています。

慶応は、なぜ箱根駅伝に出られないか

応援歌「若き血」で“陸の王者・慶応”とまで歌い上げる慶応。

いったい全体、どうして、こんな事態になってしまったのでしょうか。

このことは、慶応の関係者だけでなく、駅伝ファン、陸上関係者、高校の先生方にとっても、大いなる疑問だと思います。

まず考えられる理由は、慶応は、早稲田や明治ほどスポーツに力を入れていない、入学希望者や受験生が大勢集まるので、広告塔としてのスポーツに力を入れる必要がないというものです。

しかし、この考えは、すぐに間違いだと分かります。

もしも、慶応がスポーツに力を入れていないのだとしたら、東京六大学野球で優勝37回(早大・法大45回、明大40回、立大13回)、直近の2019年秋季リーグ戦でも優勝し、続く明治神宮大会で大学日本一にもなった事実は説明できません。

慶応は、草創期の日本野球に関わっている歴史的な事情があって、野球に特化して強化しているという見方も成り立つかもしれません。

でも、それならば、リオ五輪男子400メートルリレーで銀メダルを取った山縣亮太(やまがた・りょうた)選手(27歳)の存在は、どうなるのでしょうか。

はたまた、慶応は、陸上長距離に力を入れていないとしても、いくら何でも大学駅伝で、国立の信州大や新潟大の後塵(こうじん)を拝し、箱根駅伝予選会で東大に迫られることはないでしょう。

以上から、導き出される結論です。慶応は、やはり陸上や駅伝に力を入れていないわけではないのです。

大学としてのPRが不要だからといって、大学駅伝に力を入れないことにはなりません。

強化策を全くしていない国立大学よりも、アスリートが入試で入りやすい私大の慶応が弱い理由の説明になっていません。

慶応に残った駅伝有害論、箱根に8年間出場せず

陸上関係者から話を聞くうちに、駅伝有害論という考えに行き当たりました。

駅伝有害論とは、日本にとっての第2次世界大戦、すなわち1937年の日中戦争から1945年の終戦までの前後を含めた時期に、主として早慶両校が中心となって唱えた説です。

硬い舗装道路を長距離、走る駅伝は、選手の体を痛め、健康に有害だという考えです。

早慶両校は、この駅伝有害論を採用して、1938年から1940年までの3年間、箱根駅伝に参加していません。

また、明治大学も1938年(失格)を最後に、箱根駅伝から遠ざかっています。次に、明治大学が箱根駅伝に復帰したのは戦後の1947年。実に9年(3回)も、箱根路を走らなかったのです。

現代では、考えられない事態ですが、青少年の教育を担う大学が、青少年の健康を損なう、すなわちよい兵士になるのを妨げるとは悪そのものであるという考えが、当時は支配的だったのです。

戦後の1947年、箱根駅伝は再開され、早慶明のオリジナル4はそろって参加しています。

しかし、慶応には、思想としての駅伝有害論が根強く残っていたのです。

よき兵士をつくるために有害な駅伝は、今度は経済復興のための有為な人材づくりを阻むと考えられました。

このため、慶応は1951年から1958年までの8年間、箱根駅伝に出場しませんでした。

この“失われた8年間”で、陸上長距離選手の育成や練習のノウハウは失われ、有力高校生の進学ルートは閉ざされました。

1959年、慶応は9年ぶりに箱根駅伝に出場しましたが、最下位の16位と惨敗しました。

惨敗ショックが尾を引いて、慶応は、1960年~61年の2年間、箱根駅伝に出られませんでした。

1962年、慶応は再び箱根駅伝に復帰したものの15校中14位。1963年は、15校中13位。1964年は、17校中16位。

たまらず、1965年は欠場し、1966年に三度復帰すると最下位の15位。

以後、慶応は1994年まで断続的に4回出場するも、成績は最下位か、下から1番目。

低迷が常態となって、慶応は箱根駅伝に出られないでいます。

駅伝よりもマラソン重視の考え方

1994年から続く慶応の“駅伝氷河期”ですが、出場する機会が全くなかったわけではありません。

2003年10月、箱根駅伝予選会で、慶応は20位になり、あと一歩で本戦出場を逃しています(出場19校)。※当時は、シード校も予選会に参加。以下同

2004年10月の箱根駅伝予選会でも、慶応は20位(出場19校)。

さらに2005年10月の箱根駅伝予選会で、慶応は21位(出場19校)。

この3回のチャンスのうち、1回でもモノにしていたら、慶応はまた違った箱根駅伝の歴史が記されたに違いありません。

しかし、あと一歩でも、実力差は明確にあったわけで、それを埋めなかった責任は、非難されても仕方がありません。

実は一時期、慶応の陸上部(競走部)の長距離部門では、マラソンを重視する指導者がいた、あるいは風潮があったというんです。

世界へと、五輪へと続くマラソンに比べて、駅伝は日本だけの競技であり、駅伝に力を入れても先がないという考えです。

これもまた、形を変えた駅伝有害論に思えます。

一見、正しい意見にも思えますが、駅伝を続けるとマラソンのためにならない根拠が薄弱です。

現に、これまで瀬古利彦さん(63歳)をはじめ、箱根駅伝を経験した五輪のマラソン選手は、大勢いるじゃないですか。金メダルに届かなかったのは、結果論に過ぎません。

また、百歩譲って、マラソン重視の考えが正しいとしても、いまや2時間を切ろうとする世界のマラソンの最先端に比べて、日本は大きく後れを取ってしまっています。

つまり、駅伝はマラソンのためにならないからと駅伝をやめても、もはやマラソンでは世界に太刀打ちできなくなっています。

そんな状況で、駅伝が日本だけの競技だろうが、そのレースに夢中になって、日本人がワクワク楽しんだら、どうしていけないのでしょうか。

むしろ世界に、手が届かないからこそ、日本独自の駅伝を楽しめばいい。そう思います。

それ以前に、駅伝は実際に、アスリートのマラソン競技者としての成長を妨害していないのだから、駅伝有害論は的外れもいいところです。

箱根駅伝プロジェクトが始動、実力コーチや有力高校生が集う

しかし、さすがに近年の箱根駅伝の隆盛に影響されたのか、慶応も駅伝に力を入れ始めています。

2017年の慶応陸上部創部100年を機に、箱根駅伝プロジェクトがスタートしています。

OB会が中心になって強化費の確保に努める傍ら、日本体育大学や日清食品グループで選手および指導者として活躍した保科光作コーチ(36歳)が2017年、慶応陸上部のヘッドコーチに就任しました。

一方で、有力高校生の鎌倉学園高校の大木啓矢選手の進学が内定するなど、スカウティングも功を奏し始めています。

大木啓矢選手は高2の2018年12月、全国高校駅伝の6区で35位に入っています。

陸上長距離の高校生選手にしても、慶応は決して進学したくない大学ではありません。

むしろ就職を考えた場合、有利になるので、本当は進学したいと思っている高校生選手も多いはずです。

ただ、今までは慶応に進学すると、箱根駅伝を実質的にあきらめなければならない状況に置かれていたのも事実です。

そういった面が改善されたのは、大きいと思います。

箱根駅伝2020で、国立の筑波大は26年ぶりに箱根駅伝に復帰しました。

同じことが、慶応にできないことはないはずです。

慶応だけではなく、立教大(立大)も1968年を最後に、52年間も箱根駅伝出場が途絶えています。

大学駅伝での慶応のユニフォームには「K」の文字が記されています。箱根駅伝に古くから参加した伝統校のみが許される校名のイニシャル1文字だけのマークです。早稲田大学は「W」、明治大学は「M」、法政大学は「H」、中央大学は「C」。

「K」の文字は慶応だけが許されるイニシャルです。国学院大も、国士舘大も、神奈川大も、駒沢大も「K」は使えません。その伝統をきちんと受け継いでほしい。

慶応や立教といった古豪が再び強化して、箱根駅伝に帰ってきたら、そのときこそ日本の陸上長距離界はいっそう充実して、強くなるはずです。

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