赤井田真希(ユニクロ)のWikiプロフ!学歴や家族に「希望を信じる」1勝99敗の経営とは?












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ユニクロ初の女性CEO、赤井田真希さん(40歳)が注目を浴びています。若き超エリート? いえいえ、苦労人です。Wiki風プロフや学歴、家族などリサーチしました。

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40歳、女性初のユニクロCEO

氏名:赤井田真希(あかいだ・まき)
生年月日:1978年12月23日(40歳)
出身地:新潟県阿賀野(あがの)市
家族:夫(社内結婚)
学歴:専修大学文学部英米文学科(偏差値55~57.5)卒業
経歴:
2001年4月、株式会社ファーストリテイリング入社、ユニクロ長岡店配属
2001年10月、店長試験合格、店長職昇格
群馬県、北海道での店長を経て2004年4月、エリア統括スーパーバイザー
旗艦店「銀座店」店長、繁盛店「上海正大広場店」店長を歴任し2011年、人事・採用・教育部長
九州・沖縄地区ブロックリーダー、営業本部長を経て、グローバルマーケティング部PR部長(広報、プレス)、ファーストリテイリングマネジメントイノベーションセンター(FRMIC)責任者などを歴任
2018年3月、超大型店「吉祥寺店」店長
2018年5月、ファーストリテイリング・グループ執行役員
2019年6月、株式会社ユニクロ日本事業(国内部門)最高経営責任者(CEO)

6月1日、ユニクロの日本事業(国内部門)の最高経営責任者(CEO)に、運営会社〈ファーストリテイリング〉のグループ執行役員・赤井田真希さん(40歳)が就任しました。

ユニクロの国内事業トップに女性が就くのは、初めてです。

赤井田真希さんは、超大型店「吉祥寺店」の店長として、同店を日本有数の繁盛店にするなどの手腕が評価されました。

――と書くと、赤井田真希さんは、何やら、とてつもないエリートに見えてしまいます。不惑の40歳にして、あのユニクロのCEOになるなんて。

若い頃から、バリバリのやり手で、残業大好き人間で、ワーカホリック。

どこかの創業者みたいに、異様な笑顔で、

「『無理』というのはですね、嘘つきの言葉なんです」

いえいえ、全然、違いますよ。

赤井田真希さんは、頑張り屋さんではあるけれど、ブラック経営者ではありません。

むしろ、逆です。赤井田真希さんは、1人ひとりの個を生かした企業を目指す女性経営者です。

背景には、どんなに苦しくても、希望を信じ続けてやり抜く信念があるんです。

赤井田真希さん自身は、こう表現されています。

「99パーセントの敗北と1パーセントの勝利」

赤井田真希さんの経験に裏打ちされた経営哲学を、覗(のぞ)いてゆきましょう。

赤井田真希の夢は教師だった

赤井田真希さんは1978年生まれ、新潟県阿賀野市出身です。

阿賀野市と言っても、新潟県以外の人にはピンと来ないと思います。

南北の右斜めに広がる新潟県。真ん中の佐渡島の対岸が新潟市です。

その新潟市の南東にある、内陸部の街が、阿賀野市です。

市こそ違いますが、阿賀野市は新潟市のベッドタウン的な存在です。

最新、2010年の国勢調査では、新潟市への通勤率は26.8パーセントです。つまり、働く4人に1人が、新潟市へ通勤している状況になります。

新潟県は、全域が国土交通省の豪雪地帯に指定されていますが、新潟市や阿賀野市はそれほど雪は多く降りません。

一般の人が持つ「新潟=雪国」のイメージは、特別豪雪地帯の長岡市や湯沢町(苗場スキー場)、津南町の風景なんですね。

海沿いの新潟市は、県外の人が考えているほど、雪は降りません。阿賀野市も同様、新潟県の中ではそれほど雪は多くない土地なんです。

もう一つ、新潟市は美人が多いです。それも、地方らしい(田舎っぽい)美人じゃなくて、アーバンでソフィスティケートされた都会的な美人が多いです。

例えば、星野知子(ほしの・ともこ)さん(61歳)、樋口可南子(ひぐち・かなこ)さん(60歳)、大桃美代子(おおもも・みよこ)さん(54歳)、鷲尾いさ子さん(52歳)、DOUBLE・TAKAKOさん(44歳)、西山茉希(にしやま・まき)さん(33歳)、「王様のブランチ」(TBS系)の佐藤栞里(さとう・しおり)さん(29歳)、横澤夏子(よこざわ・なつこ)さん(29歳)、馬場ふみかさん(24歳)、志田愛佳(しだ・まなか)さん(20歳)ら。

何となく、イメージが浮かびましたか。実際、新潟市内に足を運ぶと、ほとんどの人が訛っていなく、標準語を話しています。群馬県みたいな感じです。

赤井田真希さんは、そんな新潟県阿賀野市で育った人です。

雪国育ちの人特有の忍耐強さ、春を信じ待つ強さを併せ持った人ですね。

赤井田真希さんの出身の高校は、調べたけれど分かりませんでした。阿賀野市内には高校は1校、県立阿賀野高校(偏差値37)があります。

でも、新潟市内に通勤通学するのは当たり前ですので、阿賀野高校と限ったわけではありません。

お隣の新発田(しばた)市にある県立新発田高校(偏差値61~64)に進む人も多いです。

なので、特定はできませんでした(判明したら、アップ予定です)。

大学は、専修大学文学部英語英米文学科に進みました。文学部は、川崎市多摩区の生田(いくた)キャンパスにあります。

生田キャンパスは、都心の神田キャンパスと違って、スポーツ環境に恵まれています。

赤井田真希さんは学生時代、ラクロスに熱中しました。専修大学には、ラクロスの体育会はないので、同好会でしょうね。

専修大学の女子ラクロス同好会は、今も昔も強豪ではありません。どちらかと言えば、弱小チームです。そんなチームだから、赤井田真希さんも大学からラクロスを始められたんですね。

赤井田真希さんは学生時代のラクロスを、こんな風に振り返っています。

「スポーツをやっていると、99パーセントは苦しいことだらけです。でも、残り1パーセントの『勝つ喜び』を知ると、それがクセになる。仕事も同じで、苦しくても、その1パーセントを信じてやり抜きました」

これが、赤井田真希さんの後の経営哲学、

「99パーセントの敗北と1パーセントの勝利」

に、つながってゆくんですね。

話は前後しますが、赤井田真希さんは当初、教員を目指していました。それで、中学・高校の教職課程を履修していました。

教職課程では、教育実習が必修です。通常は、自分の出身校にお願いして、教育実習を受けさせてもらいますが、専修大学の場合、付属の学校でも行えます。

中学校の英語の先生を目指していた赤井田真希さんは、もしかしたら専修大学松戸中学校(千葉県松戸市)で教育実習を受けたのかもしれませんね。

そんな実習先の中学校で、赤井田真希さんは、とても熱心に取り組んでいました。

「生徒たちが、本当にかわいくて。授業以外でも、オリジナルのドリルを作って、生徒1人ひとりのレベルに合わせた指導をしていました」

クラスの全員が理解できるまで、一生懸命に、授業を行おうとしました。

ところが、職員室で、赤井田真希さんは、ある先生から注意を受けました。

「あの生徒に、頑張って教えても、無駄だよ。“できない子”だから」

赤井田真希さんは、ショックを受けました。

「驚きました。人を育てるって、違いますよね。何かに真剣に取り組む過程で、感動したり、発見したり――その結果、学力が上がってゆく、その過程が大切なんだと、思っていたんです。それなのに、先生の立場である人が諦(あきら)めているって、とてもショックでした」

理想と現実のギャップ。赤井田真希さんは次第に、学校教育に息苦しさを覚えてゆきます。

「人を育てるのは、学校だけではない。企業でも、できるのではないか」

学校が、人を育てないわけではない。しかし、現実の学校教育は、流れ作業的にカリキュラムをこなしてゆかなければ立ち行かない。

教育の理想とは裏腹に、現実の学校現場では、教師たちは疲弊し、己のノルマをこなすのが精いっぱいだ。

1人の“できない子”を救うために、残り29人を放置するわけにはゆかない。

“できない子”は、置き去りにするしかない。

それが、プロ教師の掟(おきて)でした。

教職を断念、ユニクロへ

赤井田真希さんは、教員の道を断念し、一般企業への就職を志すようになりました。そんなとき、赤井田真希さんは、急成長を続けるユニクロに魅了されました。

「自分の成長が、会社の成長に追いつかないぐらいの組織に就職したいと思っていました。学校でも成長はできますが、自分は一生、成長し続けたかった。それで、その当時、急成長していたユニクロの採用試験を受けました。企業に入るなら、日本一の会社に入りたいと思ったんです」

当時、ファーストリテイリングの代表取締役会長兼社長は、柳井正(やない・ただし)さん(70歳)でした。柳井正さんが、赤井田真希さんを最終の役員面接で、採用しました。

2001年前後のユニクロは、1998年に出した1900円フリースが評判になり、2000年、フリース2600万枚の売り上げを達成しました。

それまでニットしかなかったインナーの防寒着に、フリースという新素材のアイテムを完全に定着させた立役者です。

ユニクロ以前のフリースは、高価で高級な登山用のグッズでした。それを大衆レベルにまで普及させたユニクロの功績は大です。

1998年に東京本部を設立、ネット通販も開始。2001年、海外出店第1号となるロンドン店がオープン。

「全業種を見渡しても、最もトレンドと言える企業でした」

就職氷河期のさなか、採用試験を受けて、赤井田真希さんは内定。

専修大学を卒業した2001年4月、380人の1人として、ユニクロの運営会社〈ファーストリテイリング〉に入社しました。

駆け出しは長岡店の店長候補

最初の配属先は、何と、故郷・新潟県のユニクロ長岡店。肩書は、店長候補でした。

店長候補には、もちろん将来の店長になることが期待されています。

「会社から、頑張れば半年で、店長になれると言われました」

頑張り屋の赤井田真希さんは、自分の中で、目標を立てました。

「最短の半年で、店長になる」

しかし、実際の店長候補とは名ばかり、実際は下っ端の何でも屋です。

同時に配属された新入社員の店長候補自体が、お店の中に4人もいます。

大学を出たばかりの22歳の赤井田真希さんは、ミスをしては年上や年下の“先輩”に叱られました。

会社の業務命令でスタッフさんに指示するにしても、気を使います。

赤井田真希さんは、毎朝7時には出社しました。

売り場と棚をチェックして、自分も接客する。

商品を品出しして、畳み、補充する。

ドラブル、クレーム、レジチェック、お店のことは、何でも率先して引き受けます。

閉店した後は、自らの担当業務の処理、マニュアルの勉強。

帰宅後もマニュアルを勉強し、3時間睡眠で、朝起きて勉強。

7:00~23:00の16時間がお店、移動に1時間。

残り7時間のうち、睡眠は3時間。

さらに残り4時間のうち、勉強2時間、掃除・洗濯・食事・入浴が2時間。

そこまでしなければならないほど、マニュアルの勉強は大変でした。

マニュアルと言っても、店長の心構えから実務まで書かれた400ページほどの冊子、それも数冊あります。冊子と言うより、本ですよね。

マニュアルは、1店舗に1セットしか備えられていません。持ち出し、コピー厳禁です。
店舗以外で学びたければ、ノートに手書きして、持ち歩くしかありません。

「写経のように、ひたすら書き写すんです。ユニクロのほとんどの社員が、経験している作業だと思います。長岡店には当時、店長候補が4人いましたから、1冊のマニュアルを毎晩、奪い合っていましたね」

赤井田真希さんは、マニュアルの写しを自宅で復習し、実店舗で実践し、うまくいかなければまた復習を、繰り返しました。

そんな赤井田真希さんの支えになったのは、大学時代のラクロスの経験でした。

半年間、格闘し続け、、赤井田真希さんは、ついに1パーセントの「勝つ喜び」を手に入れました。

目標通り、最短の半年で店長試験に合格したのです。

同期入社380人のうち、難関突破は、わずか7人だけでした。

「長岡店に配属されていた4人の新入社員で、女性の合格は、私だけです。負けず嫌いの私は、とにかく、彼らより、少しでも上へと努力しました。4人で切磋琢磨(せっさたくま)し合った結果か、合格した7人中、私を含めて3人が、長岡店の人間でした」

度重なるミスに、ついに退職届

入社半年で店長職に昇格、22歳で店長になった赤井田真希さん。

しかし、その後の苦労は、以前にも増して厳しいものでした。

物凄いプレッシャーが、赤井田真希さんを襲いました。それもそのはず、18歳から40歳までのスタッフさんを店長として預かり、お店というチームのマネジメントに当たらなければならないんです。

「次第に“理想の店長像”が見えてきて、現実の自分とのギャップに対する不安が大きくなっていったのです」

例えれば、大卒のルーキーが、いきなりプロ野球チームのキャプテンを務めるようなものです。

本当に自分は適任者だろうか、本当に自分に適性はあるのか。

自分は大学を出て、偶然に採用試験に合格しただけの存在ではないのか。

マニュアルを暗記しただけの人間に、本当に店長は務まるのか。

赤井田真希さんは、自問自答する日々が続きました。

「スタッフ20人の生活を支えられるのかという不安、会社から何億円もの数字を預かる店舗の責任者としてのプレッシャー。店長になった直後は嬉しかったものの、すぐに“しまった”と落ち込みました」

あんなに頑張ってなった店長。なのに、感じるのは、喜びよりも不安だけ。私に、店長の資格はない。

「本当に失敗の連続でした。『私って、こんなに仕事できなかったっけ』と思いました」

そんなフラストレーションがたまり、ついに頂点で爆発しました。

店長になって2カ月、ある失敗が引き金で、退職届を出す事態に追い込まれました。

ユニクロのお店では毎週、売れ行きの悪い商品の値を下げる売価変更を行います。

店長は、この売価変更の総責任者です。

約2000点の商品を1つ1つ、下げた値段をチェックし、値札にシールを貼り重ねてゆきます。

ユニクロの店舗で、よく通路沿いのワゴンに、値下げした商品が並んでいますよね。アレです。

1枚でもシールの張り忘れや、商品コード漏れがあると、大変です。

棚で表示されていた価格と、レジ打ちでのPOSデータ、価格が違うトラブルが起きてしまうのです。

「目の回る忙しさで、ついついチェックが甘くなりました。何度も、売価変更のチェック漏れを起こしてしまったんです」

度重なるミスに、店長らを統括するスーパーバイザーから、何度も注意されました。

腹をくくった赤井田真希さんは、スーパーバイザーに約束しました。

「次、失敗したら、辞めます」

ところが、また失敗してしまいました。

「その晩、スーパーバイザーの自宅に、ファクスで退職届を送りました。驚いたスーパーバイザーがすぐに店に飛んで来て、2人で夜通し、間違えたシールを貼り替えました。その際、スーパーバイザーに懇々とアドバイスを頂き、結局、退職話は消えました」

2001年、21世紀の幕開け。入社1年目の赤井田真希さんは、まさに「99パーセントの敗北と1パーセントの勝利」を味わったのです。

この“ほろ苦い”新人時代が、今の赤井田真希さんの人間性の基盤になっているとしか思えません。

お膝元の銀座店、完全アウェー上海店の店長に

2004年4月、北海道での店長から、赤井田真希さん自身が、スーパーバイザーになりました。

さらに、旗艦店「銀座店」の店長になりました。

これが、どれほど凄いか、お分かりになるでしょうか。ファーストリテイリングのトップ、柳井正さんは東京都渋谷区大山町(おおやまちょう)の豪邸に住んでいます。

最寄りの代々木上原駅から東京メトロ千代田線に乗り、表参道で銀座線に乗り換えると、20分で銀座に着きます。

つまり、柳井正さんは抜き打ちで、自らの目で、銀座店を視察できるわけです。

柳井正さん自身は“ウォーキング・ミーティング(店内を歩きながら現場をチェックし、改善を要求する)”と呼ぶ、視察の入る重要店舗です。

もしも、柳井正さんの気に入らない点があれば、店長はただちに叱責されます。下手をすれば、その場で左遷を言い渡されかねない。そうなっても、誰も助けられません。

そんな重圧のかかる中、赤井田真希さんは見事に銀座店を運営してゆきました。

2010年、柳井正さんは、グローバル化の大号令を掛けました。

「ユニクロをグローバル展開し、採用から育成までグローバルで行う体制を整え、世界中で活躍できる店長を毎年1000人、送り出したい」

赤井田真希さんは中国語ができないのに、日本人スタッフが誰もいない、新設の「上海正大広場店」の店長を志願し、店舗運営を軌道に乗せました。

銀座店、上海正大広場店を切り盛りできた手腕の陰に、赤井田真希さんの原体験が存在するのは確かでしょう。

苦しくてもやり遂げた、学生時代のラクロス。

“できない子”を切り捨てる学校教育の矛盾。

睡眠3時間で合格した店長試験。

退職危機を救ってくれたスーパーバイザーの励まし。

赤井田真希さんには、全ての人間を信じ、個を生かし、それをチームの強さに変える信念があります。

「様々な役職を経験しましたが、どの現場にも共通することは、個人の力を最大限に生かせる環境にすると、チーム力がぐんと上がること」

無駄な人材は、いない。力を発揮できないのは、環境に問題があるからだ。

「自分や人の強みを見つけ、伸ばし合うことは、海外でのコミュニケーションでも必須です。本来の自分を発揮しながら、チームワークも大切にする理想の環境を育みたい」

社内結婚、プレスも体験

2010年、赤井田真希さんは、社内結婚で伴侶を得ました。

子の存在を対外的に明らかにはしていませんが、赤井田真希さんの経営手腕は、家庭生活に裏打ちされ、いっそう光ってきました。

ユニクロの広報、プレスも経験。ファッション業界で、プレスは、重要なセクションです。

季節ごとの新ラインアップやコンセプトをメディアに発表し、デザインから売り上げ、経営まで森羅万象の意地悪な質問にさえ、にこやかに答え、様々な便宜を図ってあげます。

メディアから新商品の貸し出しを申し込まれれば、快く応じます。

時には、書くネタに困った記者たちに、独自のネタを提供したりもします。

自分自身の顔と名前を公開しなければなりません。

そこまでしてやっても、記事の扱いが小さかったり、全く別の視点に変えられたり、あるいは記事そのものにならなかったりもするでしょう。

それでも、常に、にこやかに快活にメディアの対応をしなければなりません。

吉祥寺店で、地元密着戦略が大成功

そんな要職を経て2018年3月、赤井田真希さんは超大型店「吉祥寺店」の店長に就きました。

2014年10月にオープンした吉祥寺店は、1階から7階までのフロアが売り場という超大型店です。

吉祥寺というおしゃれタウンにあって、ユニクロのイメージ戦略上でも重要な拠点です。

それなのに、吉祥寺店は、なぜか目立ちませんでした。都内有数の先進的な街にあるのに、フツーのユニクロ店舗のままでした。

着任した赤井田真希さんは、まず全スタッフに、

「ひと・まち・くらしとの共存共栄」

という店舗方針を打ち出しました。

最も地域に密着しなければならない、密着できるはずの吉祥寺店が、そうなっていないのはおかしい。どうして、他人行儀で取り澄まし、距離を置くのか。

「吉祥寺のメーンストリート、中道(なかみち)通りに店を構えさせてもらっている以上、いかに地域に貢献できるか、チェーン店ではありますが、個店経営の視点に立って考えたい」

赤井田真希さんは、地元とのつながりを求めて、吉祥寺の街を歩き回りました。

そんな中、吉祥寺在住のイラストレーター福田利之(ふくだ・としゆき)さん(52歳)と出会いました。

「中道通りに面した1階ウインドーは、街を行く人が目にする空間。そこを、地元の人たちとの共作にしたい」

赤井田真希さんは、福田利之さんにオファーを出しました。

ご承知の通り、ユニクロの店舗は、統一されたコンセプト、インテリアで、構成されています。

それを超えて、赤井田真希さんは、福田利之さんにオファーを出したんです。

当初、福田利之さんは戸惑いました。大型チェーン店とのコラボなんて初めてです。自分のイラストを、いいように摘まみ食いされるのではないか。

しかし、赤井田真希さんの熱意が伝わり、最終的に福田利之さんは快諾しました。

「(自分の作品が)子どもたちの誇れるものになって、生活している街の役に立てたら」

福田利之さんは、1階ウインドーに、人目を引く巨大イラストを描きました。

植物と動物がいっぱいで、ファンタジックで、それでいて緻密で繊細な、余韻を感じる世界観のイラストが、見る人の心に響きます。

7階はスペシャルフロアに変えて、福田利之さんのポストカードや、吉祥寺生まれの時計ブランド〈Knot(ノット)〉とコラボした腕時計の期間限定展示を開催したりしました。

他社製品を販売するなんて、ユニクロにとって異例の試みでした。これもまた、柳井正さんの信頼を勝ち得て、ホットラインでつながる赤井田真希さんだからできた試みです。

「全国のユニクロでまだ挑戦したことのない、新しいことに、常にチャレンジしたいと思っています。ユニクロに行ったら、何か新しいものがある、新しい出会いがある――そう思ってもらえるのが理想です。地域の人が喜ぶアイデアで、吉祥寺らしさを打ち出すことができれば」

赤井田真希さんの吉祥寺店は、大成功を収めました。

大型チェーンじゃないユニクロ、自分たちの街のユニクロ。

赤井田真希さんは、街も会社も活性化できました。

曲がり角のユニクロ、赤井田イズムに注目

今、ユニクロは曲がり角に立っています。

国内の売上高や店舗数は頭打ち。

一方で、グローバル化を進めなければなりません。

新たなブルーオーシャンを見つけない限り、ユニクロの躍進はありません。

女性の登用も求められています。

柳井正さんの見つけ出した答えは、赤井田真希さんのCEO起用でした。

ファーストリテイリングの柳井正・会長兼社長は9月3日、自身の後継者に女性を起用する可能性を明らかにしました。

柳井正さんは都内で行われたインタビューで、トップは「女性のほうが向いている」と発言しました。

「忍耐強さ、細かいことを根気よく取り組む、美意識がある」

現在、ファーストリテイリングのグループ執行役員43人のうち、女性は6人にとどまっています。

柳井正さんの発言は、明らかに赤井田真希さんを意識しています。

「99パーセントの敗北と1パーセントの勝利」

個を生かしたチーム力の底上げ。

とはいえ、悲壮な覚悟ではない。

もっとポップで、軽やかで。

おもちゃ箱や宝石箱から飛び出したようなアイデアの数々。

地域密着。人と街と暮らしの共生。

赤井田真希さんのマネジメントは、人をワクワクさせます。

赤井田イズムのユニクロに、今後も注目です。

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