小巻亜矢(サンリオ)のWiki風プロフ!子供の死・離婚・癌!「希望は常に絶望から」魂の経営












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サンリオエンターテイメントの新社長・小巻亜矢さん(60歳)。苦労続きの半生が評判です。学歴や家族、離婚や襲われた不幸をリサーチしました。

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美魔女で、社長で、才色兼備

氏名:小巻亜矢(こまき・あや)
生年月日:1959年8月16日(60歳)
出身地:東京都
家族:長男(32歳)、次男(1993年、2歳で交通事故死)、三男(25歳)
学歴:成城大学法学部卒業、東京大学大学院教育学研究科修士課程修了
職歴:大学卒業後、サンリオ入社。結婚退社、出産を経て化粧品会社。2014年6月、サンリオエンターテイメント顧問(業務推進室所属)。2015年6月、サンリオエンターテイメント取締役。2016年7月、サンリオピューロランド館長。2019年6月、サンリオエンターテイメント代表取締役社長
血液型:A型

6月28日付で、サンリオエンターテイメントの代表取締役社長に昇任した小巻亜矢さん。

60歳とは、とても信じられない、美魔女ぶりが評判です。

「キティちゃんより、小巻亜矢社長に会いたい」

パパやおじいちゃんの心の声が聞こえてきそうです(笑)。

こんなに美人で、しかも社長で、給料も高いんだろーな、人生の勝ち組で、うらやましい。

私も含めて、そう思った人は多いのでは。

「天は二物を与えず」とは言うけれど、やっぱり本当にいるんジャン!

才色兼備とは、このこと。

うらやましいと言うより、憎いです(笑)。

回転数不足のアタマでブサイク、こんな私を生んでくれた両親を恨みます。お礼参りに行きたいです(笑)。

とまあ、こう思っていたわけなんですが、実は小巻亜矢さん、イメージとは違って苦労人で、絶望の淵から這い上がってきた人と知ってビックリです。

小巻亜矢さんの凄まじい半生を、教えちゃいますね。

息子の死・離婚、小巻亜矢を襲った不幸

小巻亜矢さんは成城大学法学部を卒業後、1983年4月、サンリオに入社しました。

当時を知る人間の感覚で言えば「何、それ!?」「ちょっと、珍しいね」って感じです。

時代は、バブル景気に沸いている頃で、銀行や商社、保険、不動産を目指すのが当時の学生の主流でした。

ファッションやメークが好きなオシャレ女子は、百貨店(三越、伊勢丹、高島屋)、アパレル(レナウン、オンワード、東京スタイル)、化粧品(資生堂、カネボウ、コーセー)を志望する人が多かったでしょうね。

今も昔も、サンリオ志望って珍しい部類に入ります。やっぱり、好きだったんでしょうね。

変なたとえですが、就活中の大学生が、行きつけのタピオカドリンクのカフェに就職するのに似ています。

自分の好きなモノを扱うビジネスですが、ビジネスの規模としては決して大きくはない。

小巻亜矢さん自身は、こんな風に振り返っています。

「『ともに生きる仲間たちと信じあい、仲良く生きていくこと。それが私たち人間にとっての本当の幸せ』という、企業理念に強く共感して、入社しました」

しかし、入社して1年半の1984年10月、結婚退社。

え、早っ! って思われるでしょうが、当時、小巻亜矢さんは25歳。かつて女性は、24歳までに結婚するのが当たり前の主流で、24を過ぎると「クリスマスケーキ」と笑われたもの。

なので、小巻亜矢さんの結婚退職も、当時としては当たり前の感覚でした。

結婚後は、専業主婦に。

1987年、29歳のときに、長男を出産しました。

1991年には、次男が生まれました。

しかし、幸せいっぱいだった小巻亜矢さんを、突然の悲劇が襲います。

1993年、2歳だった次男が、交通事故で死亡したのです。小巻亜矢さんは34歳でした。

「本当に地獄のような毎日でした。精神的にどん底だったのは、それから少し後です。嬉しいことも何も感じない。感情を外には出せない時期、笑えない時期が長くありました」

それでも、1994年に、三男を出産しました。

推察するに、交通次男が事故死したとき、三男はお腹に宿っていたのではないでしょうか。あるいは、これは、うがち過ぎかもしれませんが、もしかしたら身重の身体だったので、歩き始めたばかりの次男に目が届かなかったのかもしれませんね。

直接の原因は、交通事故にあるとはいえ、母親として小巻亜矢さんは、ご自分を責める日が続きました。

「このままだと『息はしているけれど、生きていない』と思ったんです。子育てはしているけれど、自分が何者なのか、何のために生きているのか、生きていていいのか、と凄く切なく情けない気持ちで日々をこなしていた感じでした」

三男を出産した1994年に離婚。小巻亜矢さんは35歳でした。

「そんな自分から抜け出したくて、離婚。再就職で経済的にも自立を目指し、カウンセリングやコーチングを学ぶという、遅まきながらの『自分探し』が始まりました」

11年ぶりに復職、コーチングに出合う

1995年、結婚前に勤めていたサンリオに11年ぶりに復帰。しかし、長期のブランクや、36歳になっていた自分の年齢が重くのしかかってきました。

「離婚したものの、30代後半でしかも無職だった私がやれる仕事がなく、『自分は社会で何の役にも立たない』と思っていました。現実を思い知らされ、疎外感や無力感の中に、しばらくいました。あの当時の自分を思うと、今でも苦しくなります」

そんなとき、小巻亜矢さんは、サンリオ・グループの企業内ベンチャーで立ち上がった化粧品事業に声を掛けられました。

「たまたま誘われて化粧品販売の仕事を始めたときに、ものすごく頑張ったんです。化粧品の成分や皮膚理論、アロマテラピーとフェイシャルを必死で学びました」

2児を抱えたシングルマザーの、凄絶(せいぜつ)なチャレンジが、始まりました。

「子育てをしながら全国を回っていたら、本当に疲れ果てて倒れてしまって。過労死寸前までいきました。身体のことを、全く気にかけていなかった」

しかし、過酷な日々の中で、思いがけない“出会い”もありました。

「化粧品の仕事で全国を回っているとき、女性の悩みを聞く機会がすごく多かったんです。一生懸命答える、でも、それは私にとっての答えでしかない。その当時は、子育てでも、自分の不甲斐なさを感じることが多々、ありました。体の傷は目に見えるけれど、心の傷は何で癒やせばいいんだろうと。人の心と向き合わざるを得ない時期だったんですね。それで、コーチングを学んだんです」

コーチングとは、簡単に言うと、能力開発・育成法のこと。単に、お客さん(クライアント)にモノを売るだけではなく、お客さんの成長を促し、問題の根本解決まで支援してあげることです。

例えば、週に何度も、大量の洗剤を買いに来るお客さんがいるとします。あなたはショップのスタッフです。

そのお客さんにただ洗剤を売るのではなく「どうして、そんなに多く使うのですか」と聞いてあげます。

「子どもの泥んこになった、野球のユニホームを洗うのが大変で」

もし、お客さんがそう答えたら、

「それなら洗濯機を使わず、ゴシゴシ、手洗いをしたほうがいいですよ。水流で洗う洗濯機より、洗濯板を使って、手で擦(こす)るほうがよく落ちますよ」

そんな風にアドバイスしてあげるのが、コーチングです。物事の上っ面、現象ではなく、本質にまでさかのぼって考える方法ですね。

コーチングを学び始めた小巻亜矢さんは、一冊の本に辿(たど)り着きます。

「そんなとき、コーチングを学ぶ仲間に勧められたのが、私を救ってくれた『人生は廻る輪のように』(エリザベス・キューブラー・ロス、角川文庫)です」

『人生は廻る輪のように』は、世界的ロングセラー『死ぬ瞬間』の著者で、米国の女性精神科医エリザベス・キューブラー・ロスの自伝です。「死の概念を変えた」とまで言われるベストセラーです。

難民救済活動、末期医療……死と隣り合わせの患者たちと真摯(しんし)に向き合った著者が、体験から得た、人生で大切にすべき数々が綴られています。

「最初に読んだのは、45歳のときです。子どもを亡くした直後は、本を読む気力もなかったんです。頭に何も入ってこなかったので。ずっと自分の感情に蓋(ふた)をして生きてきたのですが、この本のおかげで、自分と深く向き合うようになりました」

スイス生まれのキューブラー・ロスは医学を修め、米国で医療に携わったとき、ショックを受けました。

それは、死が間近に迫った患者さん、死が定められた人々が、医療から見捨てられていることでした。

確かに、医師は命を救い、病やケガを癒やす仕事です。助からない人々に、深く関わっている時間も余裕もないのです。

では、死にゆく人々はほっておけばよいんでしょうか。いつかは、誰もが必ず死ぬのに。キューブラー・ロスは、自らの思考を深化させて、草創期のホスピス運動に深く関わってゆきます。

「この本から、新しい何かを貰(もら)ったというより、うっすらと感じていたことの答え合わせができたという感じでした。私にとって必要なことに辿り着くために、悩み苦しむ経験があったのか、と」

小巻亜矢さんは、あえて目をそらしていた物事を直視するようになってゆきます。

「今思えば、女性支援や、サンリオピューロランドで、みんなを笑顔にしたいと思うなど、本当に自分がやりたいことに出合うための準備だった。30代、40代は、羽をぐっと縮める時期だった。縮めて縮めて、パンと跳ねるための準備だった」

2度の癌を超えて、サンリオピューロランド館長に

『人生は廻る輪のように』で、こんな言葉に、小巻亜矢さんは打たれたと言います。

『神よ、お授けください。変えられないことを受容する度量を。変えられることを変える勇気を。そして両者の違いを知る叡智(えいち)を』

奇(く)しくも、小巻亜矢さんは40代になって、乳癌(全摘)、子宮癌(全摘)と立て続きに病魔に襲われます。

「40代での病気、50代で今の仕事に就いたことも、私の運命だったと思います。巡りくる全ては、自分でコントロールできないですから」

小巻亜矢さんは東大大学院を受験して合格。2011年から2年間、教育学研究科修士課程で学び、修士の学位を取得して修了しました。

これって案外、凄いですよ。まず、東京院教育学研究科は、社会人特別選抜はありません。院に進みたいという学部生たちとガチに競い合って合格したんですから。

ちなみに東大院の教育学研究科修士課程は毎年、約80人の募集です。下から受験する学部生や他大学出身者を合わせて、軽く募集人員を超えてしまいますよね。

6月申し込みの9月試験。1次は英語(1時間)、専門科目3題(3時間)の筆記試験。2次は専門科目の口述試験です。

しかも、出願には研究計画書の提出が必要。検定料は3万円です。決して、暇な中高年が思い付きで応募できる世界ではないんです。

修士となった後、サンリオピューロランドの顧問に就任。折しも、来場者が減少して業績が低迷していた時期でした。自ら希望したのではありません。むしろ、小巻亜矢さんは会社から離れよう距離を置こうと考えていた時期でした。

2014年、55歳のときにサンリオピューロランドの館長に就任。

「友人には『今さら苦労しなくてもいいのに。貧乏くじを引いたね』と言う人もいましたが、私はそう思いませんでした。無責任には受けられないので、重責を担えるかな、としばし悩みましたが『NO』という選択肢はないなと思いました。非常に大変な会社の状況で、私にとってはすごく大きな挑戦でした」

「2014年にサンリオピューロランドに来たばかりの頃、全スタッフの前で『私は、みんなのお母さんになる!』と宣言しました。 聞いていたみんなは、ポカーンとして『この人、大丈夫かな?』という顔をしていましたが(笑)」

就任したはいいものの、一介の会社員に過ぎない小巻亜矢さんに経営者の仕事は初めてで、大変でした。

「受け入れるほうも大変だったでしょう。数字に弱かったので、財務諸表を見るために簿記を習いました。でも、苦手なことに挑んでいるうちに、楽しくなってきた(笑)。『人生は廻る輪のように』にも『「人生に偶然はない。起こったことは、起こるべくして起こった』とありますが、全ては何かの意味があって、私が果たすべき宿題なんだろうなと思いました」

小巻亜矢さんは、低迷していたサンリオピューロランドの改革に乗り出します。

「やはり全ての要素が、負のスパイラルに陥っていました。グッズやフードメニューはじめ、様々な点に課題を抱え、売り上げが低迷していたこともあって、全体の雰囲気も良くない状況でした」

小巻亜矢さんが大事にしたのは、お母さん型リーダーシップでした。

「私は性格が結構、男っぽいのですが、お母さんが持つ『柔軟さ』や待つことに対する『寛容さ』がとても大事だと思うのです。お母さんは、子どもが靴ひもを結べなくて苦労していても、いまは私がしない方がいいと待ったりしますよね。頭ごなしに『ダメ!』と怒るのではなく『やってくれたら嬉しいな』というコミュニケーションを取ったりもします。私も社員に対して同じように接してきました。なるべく話しかける、表情を見る、後ろ姿を見る、そんな繰り返しからやってきました」

東大の大学院での学びが、スタッフさんたちとの話し合いや、朝礼のシステムを新たに採り入れるなど、意識改革に役に立ちました。

「ピューロランドで働くスタッフ全員が、モチベーションを高く持ち、何が良くないのかを認識していて、どうすれば良くなるかを考えていました」

「私が大事にしたことは、徹底的にスタッフと話して、声を聞くことでした。どんな話し合いかと言うと、決して「ダメ出し」ではなく、その人たちの中にある「感情」を聞くのです。来場者数の低迷から『ピューロランドは、全然ダメだ』と言うスタッフも人も、書き起こした文字ではなく、感情を聞くと、実は全く逆で『とても期待している』という気持ちの裏返しなのです」

「丁寧に話を聴きながら、お互いに承認し合える組織をつくり、対話をコツコツ重ねてゆく中で、社内のコミュニケーションを活発にしていけば、多くの課題は解決していくと確信していました」

さらに、小巻亜矢さんが手がけたのは、サンリオピューロランドを大人も楽しめるテーマパークに変えることでした。

子どもたちを連れてくるママさんたちを意識して、ショーにイケメンダンサーらを起用。

中でも、サンリオピューロランドの看板スター〈はっし~〉こと橋本秀作(はしもと・しゅうさく)さん(年齢非公開)、おネエキャラの〈YUTAちゃん〉こと増田豊(ますだ・ゆたか)さん、「リュウマ」こと吉田龍馬(よしだ・りゅうま)さん(2019年卒業)は、超人気者に。

「子どもの行く場所」だったサンリオピューロランドに、親子連れだけではなく、20~30代の女性たちが殺到するようになりました。

自分たちが楽しめない、楽しくないと思うイベントに、お客さまは来ない。小巻イズムが、サンリオピューロランドに浸透してゆきました。

応えるように、若いスタッフたちから、どんどんアイデアや企画が上げられるようになりました。

〈X JAPAN〉YOSHIKIさん(53歳)とのコラボ、『KAWAII KABUKI』ハローキティ一座など、サンリオピューロランドは変化を楽しめる常に新しいテーマパークへと生まれ変わりました。

サンリオピューロランドの常連となった友人が、人気の秘密をこっそり教えてくれました。

「あまり大声で言えないけれど、ベイエリアにある某テーマパークは、お天気に左右されちゃうんです。その日を楽しみにして、せっかく仲間や家族と行っても、雨の日だとガッカリです。雨の中、傘を差してアトラクションに行列しなくちゃならないし……。でも、サンリオピューロランドは、屋内のスペースが充実しているので、天気に関係なく楽しめるんです」

私から付け足すと、某テーマパークは19:30~22:30までの3時間貸し切り(プライベート・イブニング・パーティー)に最少催行人員4000人が必要です(もしくは、4000人分のパスポート料金)。

ところが、サンリオピューロランドは全日貸し切り5000人ですが、イブニング貸し切りは2000人と、ハードルが低くなっています。

さらに〈館(やかた)のレストラン〉や〈キャラクターフードコート〉での忘年会、新年会、ファミリーパーティー、歓送迎パーティーなどは、50人からOKです。

なので、企業や学校などが、よくサンリオピューロランドを貸し切りにしていますよ。

「希望は常に絶望から」小巻亜矢は包むように攻める

2014年、小巻亜矢さんが館長に就任してから、サンリオピューロランドの業績はV字回復しました。

2014年度の入場者数は、前年度から6パーセント増えて126万人。

2015年度の入場者数は、前年度比125.4パーセント増の158万人。

2016年度の入場者数は、前年度比14jパーセント増で、開園初年度(1991年度)の194万8000人に迫る180万人を記録しました。

2018年度の入場者数は過去最高、194万8000人になりました。

お母さん型リーダーシップ、小巻イズムが結実した瞬間でした。

経営者、ゼネラルマネジャーとしての小巻亜矢さんは、最初から経営者であったわけではありません。

幼い息子さんの死、離婚、2度の癌……小巻亜矢さんは、常に絶望の淵から立ち上がってきました。

いいえ、正確には、絶望を知る人間であるがゆえに、自分に対して、他者に対して強くなれる、希望を持てるたんです。

靴ひもを結べない子どもを叱ることは、たやすい。

子どもの代わりに、靴ひもを結ぶことは、もっとたやすい。

でも、それでは子どもの学ぶ機会を奪うことになります。

靴ひもを結びたくても結べない子どもは、苦しい。

でも、その姿を黙って見守っている親は、もっと苦しい。

強い“母”だからこそ、強くなった人間だからこそ、小巻亜矢さんは、それができる。

まさに、包み込むように攻める。

小巻亜矢流のマネジメントの神髄は“母”の見守りにあるのだと思います。

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