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アサヒの新社長・塩澤賢一(しおざわ・けんいち)さん(60歳)。気さくな人柄で評判です。塩澤賢一社長のWiki風プロフ、生い立ち、学歴、経歴、嫁や家族をリサーチしました。
先々代、先代とは別イメージ
氏名:塩澤賢一(しおざわ・けんいち)
生年月日:1958年9月19日生まれ(60歳)
出身地:東京都大田区
学歴:大田区立出雲(いずも)小学校卒業、大田区立出雲中学校卒業、都立小山台(こやまだい)高等学校(偏差値69)卒業、慶応義塾大学商学部(偏差値65~67.5)卒業
職歴:1981年、アサヒ入社。大阪支社長。2011年、執行役員営業戦略部長。2013年、取締役兼執行役員経営企画本部長。2014年、常務取締役兼常務執行役員経営企画本部長兼営業統括本部副本部長。2015年、常務取締役兼常務執行役員営業本部長。2017年、アサヒグループ食品取締役副社長
アサヒグループホールディングス(GHD)は2月14日、アサヒ新社長に塩澤賢一アサヒグループ食品副社長(60歳)を3月19日付で就任させる人事を発表した。平野伸一(ひらの・しんいち)社長(63歳)は退任する。
3月に社長に晴れて就任した塩澤賢一さん。
大企業の社長らしからぬ、気取らない、気さくな人柄が評判です。
普通、大企業の社長ともなると「我が社の未来戦略ビジョン」だとかリーダー論だとか、キレイごとを並べ立て、理想論のオンパレードなものですが、塩澤賢一社長は全くそんなところがありません。
どんな人にも分け隔てなく、フランクに話し掛け、こちらの話をじっくり聞いてくれると評判です。
アサヒの社長といえば、初代の先々代、小路明善(こうじ・あきよし)さん(67歳)、先代の平野伸一さんを思い浮かべますが、お2人とはちょっと違った人柄なんですね。
2011~2016年に社長の小路明善さんは、青山学院大法学部卒で、昔は営業もやられたけれど、労組専従を10年務め、原職復帰した後は人事、財務畑が長かったですよね。
そのため、本当はそんな方じゃないと思うんですが、何やら官僚っぽいイメージになってしまったんですよ。
2016~2019年に社長の平野伸一さんは早大教育学部卒で、エネルギッシュな方です。
2018年に起きた「新宿バトル」
2018年春に東京・新宿で「新宿バトル」が起きました。
“巨大マーケット”東京には大手3社の“縄張り”的な土地があります。
例えば、アサヒ本社のある墨田区では、圧倒的にアサヒが強い。まあ、お膝元ですからね。隅田川花火大会も、アサヒ1社協賛ですから。あと、浅草も強いですね。
サッポロは、やっぱり本社のある渋谷区の恵比寿周辺が強いです。
サッポロは、ヱビスを出しているだけあって、本来は東京の会社です。なので、東京の都心に強いです。
系列の銀座ライオンの関係で、銀座やライオン所在地でも強いです。箱根大学駅伝のメーンスポンサーでもあるので、大学関係でも強いです。
キリンは、発祥の地が横浜だけに、神奈川県で強くて、意外に東京では弱いんです。
でも、三菱グループなので老舗料亭や料理店は大抵、キリンを出します。
場所的には東京駅周辺や丸の内、八重洲辺りがキリンの“縄張り”ですよ。
それと関係があるのかどうか、新宿でも強いです。
2013年にキリン本社が中野区に移るまで、旧本社は原宿(渋谷区神宮前6丁目)にありました。
新宿は原宿に近いですし、中野だってJR中央線で一本ですよね。なので、新宿はキリンの金城湯池と言ってもいいほどの“縄張り”なんですよ。
その新宿の中でも、キリンにとって聖地であり、絶対に侵してはならない場所が〈新宿西口思い出横丁〉なんです。
え、あんな薄汚くて、見すぼらしい飲み屋街が、キリンにとって聖地なんですか?
そんな声が聞こえてきそうですが、ハイ、〈新宿西口思い出横丁〉はキリンにとって聖地なんです。
時代は、1945年にまでさかのぼります。
終戦直後の日本。焼け野原になった東京で、闇市が産声を上げます。
あ、闇市ってのは戦後も相当経ってから、現代人が使い出した言葉でね。
当時は、単にマーケットと呼んだんです。そりゃそうでしょう、「ちょっくら、闇市に行ってくるわ」なんて人聞きが悪くて言えたもんじゃない。
昔の人は、〇〇マーケットと闇市を呼んでいたんです。品川マーケットとか、大井町マーケットとか。
さて、戦後日本で最初の闇市は、新宿西口、現在のヨドバシカメラ本店辺りにできました。
なんと、終戦翌日の8月16日には、オープンのチラシが配られたんですよ。
当時の地名を取って、淀橋(よどばし)マーケットと呼ばれました。
そこでは、配給でしか手に入らなかったコメや医薬品、その他何でも売られていました。
やがて、淀橋マーケットに買い物に来る人たちを目当てに、飲食店ができはじめました。飲食店とはいっても、当時の店はバラックやテント小屋、屋台みたいなものです。
飲食店の中には、おでんや焼き鳥、モツ焼きを商って、飲み物を出す店も現れました。
そんな店を後押しして、自社製品を卸して回ったのがキリンです。
そうやってできた飲食店街の名残が〈新宿西口思い出横丁〉です。
なので、キリンには〈新宿西口思い出横丁〉は自分たちのホーム、そこから日本と自社は再出発したんだとの思い入れがある聖地なんですね。
もちろん、代替わりや経営者が代わったりして、キリン以外の製品を出す店もあります。
それでも〈ささもと〉〈カブト〉など終戦直後にできた老舗は、今でもキリンオンリーですよ。
そんなキリンの聖地〈新宿西口思い出横丁〉に2018年春、アサヒが大攻勢を懸けてきたのでした。
営業マンが一軒一軒回り、アサヒを勧めました。
春先の閑散期に、神奈川県南足柄市のアサヒ神奈川工場への見学ツアーを企画したのです。
情報をキャッチして、キリンの営業部隊は陣営の引き締めに〈新宿西口思い出横丁〉の地回りを強化しました。
結局、アサヒは神奈川工場見学ツアーを実施したものの、攻勢を収束させました。
これが2018年にアサヒとキリンで行われたの「新宿バトル」です。
背景に、シェア争いがあります。
前年の2017年、アサヒは「第三」部門で初めてキリンを抜き、首位に立ちました。
全体では、アサヒはシェア39.1パーセント、キリンは31.8パーセントでした(2017年)。
「第三」部門では、アサヒは30パーセント、キリンは29.7パーセントと僅差でした。
この差を拡大し、2位のキリンに大きく水をあけようとして、アサヒは象徴的な土地〈新宿西口思い出横丁〉で大攻勢に出たのではないかと見られています。
塩澤賢一は大田区出身、下町育ち
そんな2代の社長と対照的に、温厚で人当たりの良いのが塩澤賢一社長です。
それもそのはず、塩澤賢一社長は、東京の下町、大田区本羽田(ほんはねだ)の出身です。
江戸っ子と呼ぶには憚(はばか)られるほど、大田区は、本来の下町でないのです。そもそも、あの辺りは荏原郡で、江戸市中ではありませんから。
塩澤賢一さんは1958年生まれ。父親は普通の会社員、サラリーマン家庭の一人っ子として育ちました。
京急空港線・糀谷(こうじや)駅に近い区立出雲小学校に通い、中学受験とは無縁な伸び伸びとした小学生時代を過ごしました。
「何しろ、下町でしたからね。勉強よりも、遊び中心の子ども時代でした。多摩川の河川敷で、週に3回は野球に興じていました」
「それでも、小4になって、近所のそろばん教室に通い始め、3級を取りました。そろばんのお蔭(かげ)かどうか、算数は好きでしたね」
小4からは毎年、学級委員長を務めました。
中学は、同じ学区の区立出雲中学に進みました。
部活はバスケットボール部に籍を置いたものの「部員が少ない弱体チームで」ひとりでに幽霊部員になっていました。
むしろ、夢中になったのは、当時ブームを巻き起こしたボウリングでした。
1970年、塩澤賢一少年が小学6年だったときに起こったボウリングブーム。
須田開代子(すだ・かよこ)さん(1938~95,享年57)と、中山律子(なかやま・りつこ)さん(76歳)らスタープレーヤーの出現がきっかけで、日本全国で、ボウリング場が数百メートルごとに立ち並ぶほどの一大ブームが到来しました。
日本国内のボウリング場は1972年当時、日本全国のボウリング場は3697カ所を数えました。
そのさなか、中学生になった塩澤賢一少年は、ボウリングに魅せられ、のめり込んでゆきました。
「小学校高学年の頃、品川プリンスホテルに大きなボウリング場がオープンし、初めてプレーしました。中学に入ると、家の近くの蒲田にあったボウリング場(ベニーボウル蒲田)のジュニアクラブに所属し、マイボールも作りました」
なーる、塩澤賢一社長の庶民的な人柄は、大田区という土地柄で、で培われたものだったんですね。
都立小山台高から慶大商学部へ進学
塩澤賢一社長は、高校は都立小山台(こやまだい)高校へ進みました。
塩澤賢一社長が小山台高校に入学した1974年当時、東京都の都立高入試には悪名高い「学校群制度」がありました。
受験生は、志望校ではなく、志望校を含む学校群に応募するのです。選抜は学力考査と内申書で判断され、たとえ受験して合格しても、第一志望校に入学できるとは限りません。
他方、応募した学校群の入試に落ちれば、他の学校群への進学はできないという、今にして考えれば何とも不合理な謎の制度でした。
塩澤賢一社長が都立高入試を受けた1974年当時、大田区は千代田区、港区、品川区と共に第一学区に指定されていました。
第一学区は、さらに6群に分かれます。
代表的なのは、第11群(日比谷、九段、三田)、第14群(小山台、田園調布)です。
偏差値73の日比谷、偏差値64~65の九段、偏差値66の三田からなる第11群は、今で言う“死のグループ”です。
塩澤賢一少年は安全策を取って、偏差値65~67.5の小山台、偏差値56の田園調布からなる2番手の第14群を選んだのでしょうね。
幸い、塩澤賢一少年は、第一志望であっただろう小山台高校に入学できました。
小山台高校は、旧制東京府立八中の伝統を汲む名門校です。
福川伸次(ふくかわ・しんじ)東洋大理事長(87歳、元通産事務次官)や、菅直人(かん・なおと)元首相(72歳)、映画監督・山田洋次(やまだ・ようじ)さん(87歳、戦災のため転校)らが出身者です。
スポーツでは、全国高校野球選手権(夏の甲子園)東東京大会の決勝に、2018年、2019年と2年連続で進んでいます。
当時の小山台高校は、文系理系の区別なく、2年までに数Ⅲを終わらせるカリキュラムでした。
直線距離で2キロ、目黒区大岡山の東工大への進学者が伝統的に多く、東工大進学のためのシフトでした。
しかし、塩澤賢一少年は、これが挫折になってしまいました。
「数学は得意で、数ⅡBまでは順調だったのですが、数Ⅲでつまずいてしまいました。そこで、理系志望から文系志望へと“文転”したのが高2の秋。ただし、数学は相変わらず好きだったので勉強を続け、将来は公認会計士になろうと人生の目標を定めました」
気持ちを新たに、高2からお茶の水の駿台予備学校に通い始めるも、思うようには勉強に打ち込めませんでした。
「帰宅は毎夜9時頃でしたね。部活はしてなくて、勉強に集中しているというのが建前でした」
駿台の授業後に、学生街・神田神保町の喫茶店に入ったり、古書店街を歩いたり、随分長い“放課後”だったみたいです(笑)。
それでも、1977年、現役で慶応義塾大学商学部に合格、進みました。
入社1年、業績不振の大リストラを遭遇
当時の塩澤賢一さんの目標は、公認会計士です。
公認会計士試験は、当時も現在も、慶大が、東大、早大、中大を抑えて合格者数1位。
得意の数学を生かせる職業であり、地道に勉強を続けていたら当然、合格できると考えていました。
しかし、そうはなりませんでした(笑)。
もう1つの“得意科目”ボウリングに夢中になってしまったからです。
当時、慶大三田キャンパスの最寄り駅、JR田町駅の芝浦口(東口)に、田町ハイレーンという有名な巨大ボウリング場がありました。
このため、慶大は、ラグビーやホッケー同様、ボウリングのルーツ校です。ボウリングは、人気のあるスポーツでした。
塩澤賢一さんはボウリング部に所属し、1年時から役員になりました。
「アルバイト先もボウリング場という日々でした。学生生活は楽しく、気がつけば、会計士という目標は雲散霧消していました」
選手としては「上の下でした」というが、4年時には、全国大学ボウリング連合の委員長にも就任しました。
こうしたさなか、1980年、就活が始まります。
「派手に広告宣伝をしていて、カッコイイ。アサヒは業界3位。でも、三ツ矢サイダーやバヤリースも有名で、事業バランスの優れた会社に見えたのです」
就職協定通り、10月1日から会社訪問を始め、アサヒや関西の食品メーカーなど数社から内定を得ました。
翌年春、入社して初めて、塩澤賢一さんは自分の大変な思い違いに気付きました。
「入社してみて、会社がとんでもない状態に陥っていると、すぐに分かりました」
1953年に33パーセントあったシェアは、80年代前半には10パーセント台前半にまで落ち込んでいました。
特に、塩澤賢一さんが入社した1981年、アサヒは創業以来初めて、約500人のリストラを断行したのです。
社会人になって、いきなり浴びせられた会社生活の厳しさでした。
「売りたければ、愚直になれ」
1981年、塩澤賢一さんの、最初の配属先は、京都支店でした。
西日本に強く、東日本で弱いアサヒ。
戦後の1949年、国策で合併した会社が、連合国軍総司令部(GHQ)の指令で、東日本中心のサッポロと、西日本中心のアサヒに分割されたためです。
今でも、甲子園では、アサヒのみの販売ですよね。
当時、アサヒの京都府でのシェアは約15パーセントでした。
全国平均は10パーセント台前半で、
「10パーセントを割ったら、大変なことになる」
しかし、入社3年の1984年、アサヒのシェアは9.9パーセント、絶対防衛ラインの10パーセントを割ってしまいます。
低落に歯止めは利かず、1985年には、何と9.6パーセントにまで、落ち込んでしまいました。
こうなると、シェア9.3パーセントのサントリーと、ほとんど変わりありません。
経営危機の失意のさなか、1985年8月、塩澤賢一さんに辞令が下ります。
異動先は関東支店、担当は栃木県でした。
1週間の始まり、月曜午前。
塩澤賢一さんら関東支店の営業マンは、当時の京橋本社で会議を開きます。
午後、営業マンは担当地区に飛び、ビジネスホテルに泊まって営業活動を開始します。
とは建前で、実際は月曜の夜にみんなで飲んで気勢を上げ、火曜の朝に異動することもしょっちゅうだったと聞きます。
関東は元々、キリンとサッポロが強いです。
群馬県と東京都府中市に工場を持つサントリーも、売り上げを伸ばしていました。
そんな“戦国・関東”に、アサヒは一騎当千、多士済々の営業マンを送り込みました。
26歳の塩澤賢一さんは、そんな強者(つわもの)の先輩たちに接し、多くを学んでゆきます。
「お客様には手紙を書け」
「たとえ他社のものでも、店先の自販機は必ず掃除しろ」
「人のつながりを大切にしろ」
「誰が決定権者なのか、情報を集めろ」
塩澤賢一さんが凄いと感嘆したのは、菊地史朗さん(70歳)でした。
茨城県の担当だった頃、土浦市にあった“特殊劇場”に通い詰め、踊り子さんたちを魅了。
踊り子さんたちは、舞台がハネた後、行きつけの店で、
「私、アサヒしかダメなの。替えてちょうだい」
お店を、次々にアサヒに替えさせていったのです。
塩澤賢一さんは、後にアサヒ飲料社長になった菊地史朗さんに頭を下げました。
「先輩たちみたいに、もっと、売れるようになりたいんです。でも、どうすればいいのか――」
菊地史朗さんは、塩澤賢一さんを励ましました。
「塩澤、愚直になれよ。売れるコツは、愚直になることだ」
塩澤賢一さんの“魂の営業”が始まります。
「自分には経験も知識もない。だったら、訪問数を増やすしかない」
塩澤賢一さんは、卸、販売店、飲食店を徹底的に回りました。
販売店では、頼まれる前から、店先の掃除をする。
心を込めて自販機を磨き上げ、故障があれば修理する。
たとえ他社の自販機でも。
棚卸しがあると聞くと、真っ先に手伝う。
そうこうするうち、店主や売り場責任者の目が、自然と和らいでくる。
「いいよ、あんたの好きに並べて」
大声でお礼を言って、夢中で商品を並べる。
最上段、左端のいちばん目立つ角に、アサヒの製品を並べてゆく。
栃木県で奮闘する塩澤賢一さんに毎朝、関東支店課長の荻田伍(おぎた・ひとし)さん(77歳)から電話が掛かってきました。
「塩澤、調子はどうだ?」
荻田伍さんは宿泊先のホテルから、全営業マンに毎朝電話をかけて、状況を聞きます。
10円玉が大量に入った巾着袋を持ち歩く荻田伍さんに、塩澤賢一さんは“理想の上司”像を見たのでした。
「荻田さんの電話に随分、助けられました。私には見ていてくれる上司がいたんです」
このときの経験が、今の塩澤イズムを培ったと言えそうです。
塩澤賢一社長の嫁や家族は
最後に、塩澤賢一社長の嫁や家族の情報を調べましたが、まだ明らかにされていませんでした。
確率的に見て、既婚者だとは思われるのですが。
あるいは、激務ゆえ、そんなチャンスがなかったのかもしれませんね。
詳しい情報が分かり次第、アップしてゆきたいと思います。
塩澤賢一社長を見て感じるのは、ひたむきさと共に、どこかカラッとした明るさです。
真剣であっても、決して暗くはないのです。
会社や業績が追い詰められていても、どこか楽天的です。
自分たちの力を、仲間たちを信じているというか。
人こそ財産――塩澤イズムのエッセンスは、そこにある気がしています。
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