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元プロボクサーのピューマ渡久地こと渡久地隆人容疑者(49歳)が傷害の疑いで現行犯逮捕されました。渡久地容疑者の現在や家族を緊急リサーチしました。
駐車場で保育士の男性を殴りケガ
リングネーム:ピューマ渡久地(とぐち)
本名:渡久地隆人(とぐち・たかと)
生年月日:1969年11月20日(49歳)
出身地:沖縄県うるま市
家族:父、母(79歳)、祖母(97歳)、長女・梨以さん、次女・旺羅さん、長男・琉雄さん
学歴:私立興南高等学校(偏差値49~60)卒業、日本大学農獣医学部(現・生物資源科学部、偏差値42.5~62.5)中退
沖縄県うるま市の元プロボクサーで無職の渡久地隆人容疑者(49歳)が傷害の疑いで、沖縄県警石川署に現行犯逮捕されました。
石川署によると、渡久地隆人容疑者は7月1日夜、うるま市の駐車場で、那覇市の男性保育士(30歳)の顔を複数回殴り、けがをさせた疑い。
渡久地隆人容疑者は「殴っていない」などと、容疑を否認しています。
渡久地隆人容疑者は、元日本フライ級王者で、「ピューマ渡久地」のリングネームで活躍したプロボクサーです。
ピューマ渡久地さんは、鬼塚勝也さん(49歳)や辰吉丈一郎さん(49歳)とともに「平成の三羽烏(さんばがらす)」と呼ばれたボクサーです。
具志堅用高さんと同じ興南高校を卒業して、18歳でプロデビュー。
しかし、1990年10月には現役を引退。
2001年には東京都港区東麻布でプロボクシング協会加盟ジムの〈ピューマ渡久地ジム〉を開業。
ピューマ渡久地さんが名誉会長となり、元嫁・渡久地聡美(さとみ)さん(50歳)が会長となっていました。
渡久地聡美さんは、旧姓・生田(いくた)。
1993年8月に結婚し、3人の子ども(2女1男)をもうけました。
しかし、ピューマ渡久地さんは、不慣れなボクシングジム経営のストレスからか、飲みすぎるようになり、それがもとで2006年、離婚しました。
離婚後も、渡久地聡美さんは、経営上のパートナー関係は維持、会長としてジムの経営に当たってきました。
記憶障害で要介護3級のピューマ渡久地
そんなピューマ渡久地さんは2008年、ボクシング協会の理事会に参加した際、突然、痙攣(けいれん)を起こして救急搬送されました。
当初は、脳梗塞(のうこうそく)と説明されたものの、精密検査の結果、脳梗塞ではなく「重積てんかん」と診断されました。
「重積てんかん」とは、発作のたびに脳に酸素が送られず、脳細胞が破壊されてしまいます。
パンチドランカーの進んだピューマ渡久地さんは、すでに何度も発作を起こしているので、記憶をかなり失ってしまった状態でした。
家族のことも記憶できず、ピューマ渡久地さんは、自分の介護のために仕事を辞めて沖縄にきた長女・梨以さんが誰であるか思い出すのに時間がかかる有様。
ピューマ渡久地さんの中では、大人になった梨以さんも、小学生のままとなっています。
自分の年齢も分からなくなり、散歩に出かけると自宅の場所を忘れるほどです。
ピューマ渡久地さんは現在、沖縄県うるま市の実家で、農作業を手伝っていますが毎回、クワの使い方を教えてから作業をしていると明かされています。
また、右半身にまひがあるため、食事の時も難儀しています。要介護3級です。
現在、身の回りの生活は両親や祖母、ボクシングジムについては元嫁・渡久地聡美さんが支えています。
幸いにも、ピューマ渡久地さんは元嫁・聡美さんの存在は記憶しており、
「ジムを守ってくれて、ありがとう」
と感謝の言葉を伝えています。
対戦直前に失踪したピューマ渡久地
改めて振り返ると、ピューマ渡久地さんは興南高校入学と同時にボクシングを始めました。
高3で高校総体フライ級準優勝(優勝は川島郭志さん)、地元・沖縄で開かれた1987年海邦国体で沖縄県代表として団体優勝。
アマチュア時代の戦績、58戦53勝5敗を引っさげて、18歳でプロ入り、1988年8月にデビュー戦を行いました。
デビュー戦以来、KO勝ちを重ね、1990年3月、日本フライ級王者獲得、8月の初防衛戦もKO勝ちを収め、デビュー以来の連続KO勝ちを「11」に伸ばしました。11月の2度目の防衛戦は判定勝ちで、連続KOの記録は途切れましたが、連続KO「11」は日本歴代3位の記録です。
1991年3月、3度目の防衛戦で、売り出し中のロシア人ボクサー勇利アルバチャコフ(52歳)と対戦することになっていましたが、試合直前に当時の所属ジムとトラブルを起こして失踪(しっそう)。
日本王座は剥奪(はくだつ)となり、JBCから「無期限ライセンス停止」の処分を受けました。
元祖お騒がせボクサーですね。
1993年4月に復帰し、ヘスス・ロハス(55歳、ベネズエラ)と対戦して9回TKO負け、プロ初黒星。
1994年8月の試合にも敗れ、プロ2敗目。
1995年1月、復帰5戦目で、日本フライ級王者・岡田明広と対戦、10回判定勝ちし、4年ぶりの王座返り咲きに成功しました。
しかし、試合後のリングでのインタビュー中に野次られ、激怒。
「気に入らないなら、ベルト返してやるよ!」
と叫び、ベルトを外そうとする一幕もありました。
その後、3度(通算5度)の王者防衛に成功。
日本王者を返上して、1998年12月、WBA世界スーパーフライ級王者・飯田覚士(49歳)と対戦することになりましたが、試合前に「脳梗塞の疑い」と診断されて試合中止。
1999年10月、1年4カ月ぶりの再試合に臨みましたが、3回TKO負け。結局、この試合を最後に現役を引退しました。
プロ通算戦績は27戦23勝(19KO)4敗でした。
「平成の三羽烏」で唯一、世界王者になれなかった不世出の名ボクサー。
パンチドランカー症候群の後遺症とはいえ、人を殴ってしまったことは許されません。
容疑を否認するのではなく「覚えていません」と言い換えて、少しでも寛大な処分を願い出てほしいですね。
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