田辺聖子の自宅は?川野純夫との結婚生活が残した人生や夫婦の機微に触れる名言!












スポンサードリンク




作家・田辺聖子(たなべ・せいこ)さんが2019年6月6日、胆管炎のため死去しました。享年91。田辺聖子さんの残した自宅や名言の数々を振り返ってみました。

スポンサードリンク

田辺聖子が晩年を過ごした家は?

『ジョゼと虎と魚たち』『感傷旅行(センチメンタル・ジャーニイ)』などの恋愛小説、多彩な文学活動で知られる作家・田辺聖子さんが6月6日、総胆管結石による胆管炎のため、神戸市内の病院で亡くなりました。享年91。

6月10日になって公表されました。すでに通夜や密葬は親族によって済まされており、後日、東京と大阪でお別れの会が開かれる予定です。

訃報の直後から、ツイッター上で、追悼ツイッターを投稿する人が多く、10日夕のツイットレンドでは「田辺聖子」が4位、『ジョゼと虎と魚たち』が19位にランクインしました。

今まで伏せていましたが、実は私は、田辺聖子さんにほんの少しだけ、ご縁があるんです。

中学生の頃から、手当たり次第と言っていいぐらい、田辺聖子さんの小説やエッセーを読み耽(ふけ)っていた私。とりわけ、エッセーが大好きでした。

なので、社会人になった頃、思い切って田辺聖子さんいファンレターを送ったんですよ。

え、どうやって送ったかですって? ご存じない方も多いと思いますが、一般に作家さんへのファンレターは、本を出している出版社あてに送ればいいんですよ。

講談社気付 京極夏彦先生

とか。そうすれば、出版社から作家さんに回送してくれます。簡単でしょう?

それで、自分でもファンレターを送ったのを忘れかけた頃、田辺聖子さんから返信があったんですよ。

はがきに万年筆で、丁寧で誠実な文章が綴(つづ)られていました。私ごときに、田辺聖子さんはきちんと返事を下さったんですよ。

どんなことが書かれていたかって? それは、秘密です(笑)。だって、憧れの先生から頂いた、私にとって宝物みたいな返信なのですから。

でも、ほんの少しだけ明かすと、私の書き綴った悩みに、田辺聖子さんは誠実に答えてくださいましたよ。私は、すーっと気が楽になって、悩みが軽くなったのを覚えています。

はがきには、田辺聖子さんの住所も書かれていました。そのとき、お礼のはがきでも出せばよかったのに、忙しさに取り紛れてというか、恐れ多くて、気恥ずかしくて、それっきりになっちゃったんですね。

でも、住所は、頭にしっかり入りました。その後、機会があって関西に行ったとき、思い立って田辺聖子さんのご自宅を見に行ったんですよね。

JRの駅前でタクシーに乗って、運転手さんに住所を写し取ったメモを見せました。

「あの、ここに行きたいんですが」

そしたら、運転手さんは、ちらっと目を走らせただけで、ろくに見もせずに、

「何、田辺さんの家に行きたいの?」

私は、死ぬほど驚いて、

「ええっ、ご存じなんですか」

運転手さんは、朗らかに笑って、

「ご存じも、ご存じじゃねえも、伊丹の運転手で、田辺さんの家を知らん者はおらんやろ(笑)。立派な豪邸で、月に何回か、お客さんを乗せるわ。田辺さんがお出掛けのときも、呼ばれてゆくんやで」

その後、楽しく会話して、田辺聖子さんのご自宅近くで降ろしてもらいました。ぐるりと一回りしたんですが、確かにご立派な自宅でしたよ。

近所の人たちも、みんな、ご存じで、すぐ近くの入ったカフェの人たちも、知っていました。

あ、もう、ウッカリ書いちゃいましたよね。今さら隠しても無意味だし、地元では幼稚園児でさえも知っているので、お教えしますね。

田辺聖子さんのご自宅は、兵庫県伊丹市にあります。私鉄の駅から400メートル、徒歩5分の至便な立地です。

このご自宅は、いつ建てられたのかは分かりません。しかし、田辺聖子さんは1876年から、ずっと伊丹市にお住まいです。当地で、阪神大震災(1995年)にも遭われています。

おそらく、このご自宅で、田辺聖子さんは夫・川野純夫さんと幸福な家庭生活を送ったのではないでしょうか。

亡き友の夫と結婚した田辺聖子

さて、話は戻りますが、田辺聖子さんは樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)国文科に在学中だった1955年から57年にかけて、半年間ずつ2回、小説教室〈大阪文学学校〉の夜間部に週3回、通っていました。当時27~29歳ですね。

その頃の思い出を、田辺聖子さんは自伝的小説『しんこ細工の猿や雉』(1981)に綴られています。

大阪樟蔭女子大学の後輩には、漫才コンビ〈オセロ〉の白いほう、松嶋尚美(まつしま・なほみ)さん(47歳)がいますね。

田辺聖子さんは、大阪の金物問屋に勤める傍ら、文芸同人誌「文芸首都」「大阪文学」に参加。「文芸首都」は北杜夫、なだいなだ、佐藤愛子、中上健次らが輩出した同人誌ですね。

1956年『虹』で大阪市民文芸賞を受賞し、田辺聖子さんは、本格的な作家活動に入りました。

1964年1月、田辺聖子さんは、同い年の川野彰子(かわの・しょうこ)さん(1928~64、享年36)と知り合います。

川野彰子さんは鹿児島県の奄美大島出身で、立命館大学文学部を出た後、同じ奄美大島出身の皮膚科の開業医・川野純夫(すみお)さん(1924~2002、享年77)と結婚し、神戸市に家庭を持ちました。

2男2女を産み、下の子が幼稚園に入って手が掛からなくなると、川野彰子さんは、小説を同人誌などに書き始めます。

そのうち「色模様」が1962年上半期第47回直木賞候補に、「廓育ち」が1963年下半期第50回直木賞候補に入りました。

第50回直木賞の選考会は1964年1月21日、東京・築地の料亭〈新喜楽〉2階で行われました。

同時に〈新喜楽〉の1階では、第50回芥川賞の選考会が開かれ、田辺聖子さんの「感傷旅行(センチメンタル・ジャーニィ)」の受賞が決まりました。

受賞した田辺聖子さんと、落選した川野彰子さんは神戸と尼崎で家が近く、また作家・島京子さん(93歳)という共通の友人がいたため、パーティーで会うたびに、別室でおしゃべりに興じるようになりました。

ところが、その年の9月11日に、川野彰子さんは急死してしまいます。享年36でした。

田辺聖子さんは、雑誌などに川野彰子さんの追悼文を書き、葬式にも参列しました。

その後、川野彰子さんの夫・川野純夫さんが、田辺聖子さん宅に、お礼に来られました。田辺聖子さんは2日続けて徹夜して、髪もバッサバサで、応対しました。

「何ですか? 何のご用ですか?」

すると、川野純夫さんは、心配して、

「あんた、そんなことをなさっていると、いけませんよ。ほんとに、あんたもいかれますよ。ちょっと陽に当たったらどうですか。裏表、陽に当てなければいけません」

それがきっかけで、川野純夫さんは、田辺聖子さんをドライブに連れ出すようになりました。さらに、おしゃべりに興じ、気付けば時間がなくなるほどに。

川野純夫さんは、いつも時計を見て、

「あ、晩の診察時間だ」

と、慌てて帰ってゆく状態でした。そんなわけで、段々に、

「こないおしゃべりしているんだったら、一緒になったほうが、朝晩しゃべられて、よいのと違(ちゃ)うか」

となったそうです。

1966年、田辺聖子さんは晴れて、川野純夫さんの後妻として結婚しました。田辺聖子さんが嫁いだとき、川野家は、こんな家族構成でした。

川野純夫(当時42歳)
長男(中学1年)
次男(小学5年)
長女(小学3年)
次女(小学2年)


義弟(神戸大学医学部)
義妹

ご自分も入れて、いきなり10人家族の主婦となった田辺聖子さん。たいへんな苦労があったそうです。

ダンナさんの弟、妹といっても、まるで親子ほど年が離れていて、実質“長男”と“長女”。田辺聖子さんは、いきなり6人の子の“母”になったのと同じでした。

しかも、普通の主婦と違って、田辺聖子さんは売れっ子作家で、小説も書かなければなりません。想像を絶する苦労があったでしょう。

人生の知恵、優しさに満ちた田辺聖子語録

そういった人生を歩んだだけあって、人生の達人・田辺聖子さんの名言、教えは、過激に走らず、穏やかな人生の知恵、優しさに満ちたものとなっています。

コピーライターでライターの田中泰延(たなか・やすのぶ)さん(50歳)は、田辺聖子さんのこんな名言を伝えてくれています。


人に「ちょっと事情がありまして」と言われたら「さよか、事情がありまんねんな」と思うだけでなく、口に出して言いなさい。

何とも、味わい深い言葉です。例えば、大切な約束をドタキャンされたとき、相手を怒る、憎むのはたやすい。

でも、その感情に身を任せると、大事な本質を見失ってしまう恐れがあります。人生の達人・田辺聖子さんは「さよか、事情がありまんねんな」と口に出すことで、敢えて無用な怒りをやり過ごせと説いてくれるのです。

「私が夫の家へ来た頃は、姑・小姑・義理の子供とたいへんな人数であった。その中で暮らすには、物書きの自我、女流作家意識はひっこめなければならぬ。
自分の部屋で仕事をする、ほんの数時間だけ、自我を出せばよいのである」

(『浜辺先生町を行く』1977)

「私は、今の夫に、とってもくどかれて、それからすてきな恋文をどっさりもらって、有頂天で結婚したけれど、私の方も、こんないい男ないと思い、それは結婚以来足かけ九年のいまでも同じである。
この年になって、いまだに、彼が夕食のため台所へくる足音をきくと、心ときめく、といったら、クラスメートの友人に、ギュウと青痣(あおあざ)が出るほどつねられた。ええかげんにせえ、という」

(『続 言うたらなんやけど』1976)

「私は世の奥さんで、旦那のワルクチをいうのに日も夜もない人の、その心理がわからない。
私は、男がそばにいる女の幸せを、妻はもっと感謝すべきだと思う。やっぱり、男がいるのと、いないのとでは、女の人生がちがう」

(『言うたらなんやけど』1973)

「家庭の幸福、という富は、夜の数時間に圧縮しても得られるんじゃないか、と私は思うようになっている。
では家庭の基盤は何かということになるが、私は、
『顔を見てホッとする顔があつまること』
ではないかと思っている」

(『ぼちぼち草子』1988)

「人間が自分の個性を守り、それを磨くにはコマゴマした雑事を、ある期間ブッツリ断つことが必要だが、あわれ女の肩には生涯、雑事の重荷がかかっているのだ。
(中略)
よって女はつい、家庭生活に埋没してしまうという落ち込み方をする」

(『言うたらなんやけど』1973)

「夫を尊敬できないということは、妻に静かなる絶望を強いる。
男は妻を尊敬できなくても、平気で結婚生活をつづけていける。
(中略)
しかし妻が夫への尊敬と信頼を失ったら、結婚生活の基盤は崩壊する」

(『花衣ぬぐやまつわる……』1987)

「葬式はどんちゃん騒ぎで」

6月6日に亡くなった田辺聖子さん。通夜と密葬は親族の手によって行われましたが、後日、お別れの会が東京と大阪で予定されています。

田辺聖子さん自身は生前、こんなふうに自分の老いや死、葬儀を書き綴っています。

「老いは驚きや発見を失うことなのだ。
しかし私はそれを悲しむよりは、そういう〈老いの風景〉に興味を感じて、面白くてたまらない」

(『楽老抄 ゆめのしずく』1999)

「突如、老母(田辺勝世さん、2005年10月1日死去、享年100)は聞く。
〈それで、わたしはいま、なんぼになったんやろ?〉
私が九十三だというと、老母は愕然とする。
(中略)
〈わたし、そんなトシになるまで、何してたんやろう!?〉」

(『iめぇーる』2002)

「一日一日は長かったのに、終ってみれば何とあっけなく短い夏休みだったことだろう。人はその生を終るとき〈夏休み〉のところを、〈人生〉におきかえて、同じ感慨をもつのだろうか」

(『楽老抄 ゆめのしずく』1999)

「人生でいちばんいい言葉は、
〈ほな〉
である。
これは席を起つ(人生の席でもある)ときの挨拶である。ほんなら(そんなら)これで失礼します。みなさん、お先に。面白かった、ありがとう……という意味である」

(『楽老抄 ゆめのしずく』1999)

「私は、本音をいえば葬式にどんちゃんさわぎをやってほしい。
文庫本くらいの私の写真だけを飾っといて、みんな、たらふく、たのしく飲んだり食べたり、してほしい。会費制なんて、そんなみみっちいことはしない。私は友人に恩を受けること多かったから、せめてそれぐらいのお返しはしたい」

(『歳月切符』1982)

ローティーンの頃から、私の愛してやまなかった田辺聖子先生。

本当に多くの贈り物をくださり、ありがとうございます。

今は天国で、カモカ(京都府・大阪市の言葉で「鬼や化け物などの恐ろしいものを言う幼児語」。転訛「がごじ【元興寺】」)のおっちゃんと再会して、再び幸福な時をお過ごしだと思います。

田辺聖子先生、素晴らしい永遠の時を、天国でお過ごしください。ご冥福を祈るというより、固く信じております。

田辺聖子の夫や子どもと残した名言は?死因や臨終の様子に告別式はいつどこで?

スポンサードリンク

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください